散歩さえできない
先日、実家に帰省したときのことです。早朝の散歩が日課だった父が家の中でテレビをみています。散歩しないの?と尋ねると、「熊がいるかもしれないから歩けないんだ」と。
熊被害の多い自治体では、不要不急の外出を控えるよう強く呼びかけています。熊による人身被害を防ぐために不要不急の外出は自粛する。批判の余地はない適切な危機管理です。
しかし一方、歩かないことによる二次的な健康被害についてはほとんど言及されていません。実際、父はここ数ヶ月まともに歩いていないので体調があまりよくないそうです。
熊による人身被害と運動不足による健康被害。2つの被害は、あるリスクを防ぐことで別のリスクを誘発する典型です。私の直感は「歩けないことによるリスクは決して看過できない」と訴えています。目に見える危険と、誰も数えていない危険。今回の記事はその二つ目の話です。
コロナ禍の運動不足
「散歩さえできないなんて大袈裟でしょう」。こう思われるかもしれませんが、熊による被害の多くは自宅付近で起きているのです。ここで思い起こしてほしいのはコロナ禍です。
70代の約3割は運動時間が減少
「コロナ太り」という流行語が生まれたように、コロナ禍では外出制限による運動不足、食べすぎ、ストレス等による健康被害が指摘されていました。
コロナ禍の運動不足は統計データで確認できます。スポーツ庁の体力・運動能力調査では、2021年度に幅広い世代で体力が落ち込み、なかでも高齢者の低下が目立ちました。同調査の分析を担う内藤久士・順天堂大教授は、65歳以上を対象にした「6分間歩行」の成績も振るわなかったと指摘しています。外出自粛で、歩ける距離そのものが縮んでいたのです。ただし内藤教授は「結果全体はさまざまな要因が絡み、コロナだけが理由とは言い切れない」とも留保しています。
ニッセイ基礎研究所の調査では、2022年3月の時点でも70代の約3割が、流行前より運動時間が減ったままでした。影響は、自粛が終わっても居残るのです。
そもそも運動不足が健康を蝕むことは、医療界に限らず世間の常識です。東京都健康長寿医療センター研究所の整理によれば、運動不足が日本人の総死亡に占める寄与は16.1%にのぼり、これが解消されれば平均余命は0.91年延びると推計されています。
それでも散歩という運動手段はあった
コロナ禍の運動不足は明らかですが、当時、運動不足を解消しようと近所を散歩したりウォーキングをする人が増えたのも事実です。私のウォーキング習慣もきっかけはコロナ禍でした。
コロナ禍で制限を受けたのは「不要不急の外出」と「3密(密閉・密集・密接)」でした。そこに「散歩」「ウォーキング」は含まれていません。運動手段のすべてが奪われたわけではないのです。散歩・ウォーキングという運動手段があった点で踏みとどまったともいえます。その後、筋トレやピラティスなど、運動再開するムードが高まっているのは、コロナ禍で運動の大切さに気付く人が増えた証左です。
コロナ禍より厄介な熊被害|散歩さえできない
では、今回の熊出没による外出抑制はどうでしょう。コロナ禍と決定的に異なるのは「散歩さえできない」ことです。特に散歩が貴重な運動機会でもある高齢者の場合、以下の理由により、熊出没による外出抑制はコロナ禍以上に深刻な健康被害をもたらす可能性が高いと言えます。
終わりが見えない
一つは、終わりが見えないこと。コロナにはワクチンという出口がありました。熊のほうは、令和7年度に出没情報が5万776件と前年度の倍以上に達し、人身被害238人、死者13人といずれも過去最多を記録した後も、収まる気配がありません。
専門家は、令和7年秋の大量出没時に捕獲されなかった個体が市街地の周辺に残っている可能性を指摘しています。本来なら冬は熊が冬眠し、人が一息つける時期でした。ところが冬眠せず市街地に現れる「新世代」の熊が報じられ、岩手県では令和8年の1月から3月の出没が197件と、過去5年の同期平均の約6倍に達しました。
雪深い地方の高齢者は、ただでさえ冬に外出が難しい。その冬に逃げ場がなくなっている。熊被害は一過性のショックではなく、終わりの見えない構造です。
散歩時間と熊の出没時間の残酷な一致
さらに高齢者にとって分が悪いのは熊が出没する時間帯です。熊が最も活発になるのは早朝と夕方です。これは、暑さを避けて高齢者に散歩が勧められる時間と、そっくり重なります。
「歩くのに一番よい時間が一番危ない時間になっている」という残酷な一致です。父の散歩時間もまさに早朝と夕方です。家族が止めるのも無理はないわけです。
地域交流が阻害される
散歩は近所の人と挨拶する貴重な時間でもあります。近所付き合いの希薄化が懸念される中で、散歩は自然な近所付き合いを促す役割を担っています。
厚生労働省は高齢者のフレイル予防として、体操やサロンといった「通いの場」の整備を進めてきました。地方の場合、冬期間の外出困難や山間部からの移動困難によって参加がままならず、孤立と閉じこもりから要介護化のリスクが高まると、厚労省自身が問題視してきたものです。
そこに熊という第三の障壁が加わりました。熊による外出抑制は、個人の運動機会だけでなく、地域交流の場、さらには行政が築いてきた予防の仕組みごと、機能不全に追い込んでいるのです。
なぜ誰も論じないのか
高齢者のいる家庭なら、散歩しないことで日々衰えていくおじいちゃんおばあちゃんを目の当たりにするはずです。しかしこの問題を取り上げている報道を私はみたことがありません。なぜ誰も論じないのでしょうか。
顕著性バイアス
熊に襲われる危険は、鮮烈で、即座で、一人ひとりの顔が見えます。だから毎日のように報じられ、誰もが知るところとなり、そして対策が打たれます。
より目立つ、あるいは強い印象を受ける情報に強く注意を惹きつけられ、それ以外の重要な情報を見落としてしまう認知の偏りのことを顕著性バイアスと呼びます。ウイルス感染や熊被害のような衝撃的な情報は顕著性バイアスが働きやすい。一方、歩かなくなることで進む健康の衰えは、緩慢で、目に見えず、日々のニュースには登場せずSNSで拡散もされません。
熊被害には熊が人を襲う直接的被害と、外出抑制で生ずる間接的被害があるのに、顕著性バイアスが生じる直接被害だけがクローズアップされているわけです。
なお、都市部の住民であれば、代わりに歩ける場所を選ぶ余地はあるでしょう。しかし問題が集中するのは、代替手段の乏しい中山間地の高齢者です。そしてその地域は、高齢化率が最も高い地域とみごとに重なっています。回避できるという言い分は、回避できない人たちを視界の外に置いています。
エビデンスを示せない
健康被害という間接的被害が取り上げられないのは即時的なエビデンスがないこととも関係しています。熊による直接被害は「熊の出没〇件、人身被害〇人、死者〇人」という形でエビデンスになりますが、歩かないことによる健康被害は〇人のようなエビデンスにならない。心臓疾患で倒れる人が出ても、それが熊被害で外出しないせいだ、とはいえません。
歩かない健康被害という見えないコストが実在することは、先のコロナ禍で立証されています。ただそれも何年か経過した後の調査でようやくわかるというレベルです。熊による外出抑制が高齢者の歩行をどれだけ奪ったかを測ったという調査は、まだありません。
以前このブログで、エビデンスがないものに思考が及ばない現象(エビデンス至上主義)について指摘しましたが、今回の熊被害についても顕在化しているわけです。
「歩けないことの代償」を同じ天秤にのせる
では熊を駆除すればいい、屋内で運動すればいい——そう続けたくなりますが、この問題の本当の難しさは、そこに簡単な答えがないことです。
同じ東北でも、対応は割れています。秋田県には入山を禁じた地域があり、山形県知事は山菜採りの自粛要請を含む「特別警報」の新設に言及しました。一方で岩手県は、入山規制はせず強い注意喚起にとどめています。
どれが正解かを、誰も言い切れていない。目の前の人身被害を確実に防ぐことと、緩慢に進む健康被害を防ぐことはしばしば逆を向きます。恐怖は今日を支配し、衰えは何ヶ月もかけて忍び寄る。両者の間にきれいな最適解はありません。
だからこそ必要なのは、正解を一つ選ぶことではなく、これまで片方の皿にしか載せてこなかった「歩けないことの代償」をもう一方の皿に載せることです。熊対策の効果を測るとき、私たちは人身被害という分かりやすい数字だけを秤に載せ、その裏で失われていく高齢者の健康をもう一方の皿に置いてきませんでした。エビデンスがないから存在しないのではない。測る前から片側の皿だけを見て意思決定が進んでいる——これがこの問題の本質です。
完璧な計測を待つ必要はありません。出没地帯の自治体が、せめて高齢者の外出頻度や「通いの場」の参加率の変化を記録し始めるだけでも、見えなかった重みは輪郭を持ちます。処方箋を書くことはできなくても、秤がいま片側に傾いていることに気づくことはできる。
実家に戻ったとき、父はテレビの前にいました。かつて毎朝歩いていた道は、家のすぐ外にあります。その数十メートルが、いまは遠い。熊を恐れなくてよい日は、当分こないでしょう。それでも——人身被害の側にだけ傾いたその秤に、もう一方の錘を置く──。父がまた朝の道を歩けるようになるために、いま始められるのは、そこからです。

