データに基づいた政策の企画・立案・評価──EBPM(Evidence-Based Policy Making)が全国各地で広がりをみせています(この問題については、以前「日本人はリスクが嫌い」は本当?|エビデンス至上主義の落とし穴」で論じました)。この流れに準じるように地域のコンサルティング会社はデータと論理を積み上げた提案を積極的に行っています。一方、コンサルを受けた自治体からは「この提案は現場で機能しない」「理屈としてはわかるが何かが足りない」という不満の声が強まっています。データと論理を完璧に積み上げた提案が、なぜ現場では機能しないことがあるのか。その理由と打開策について、データと論理の壁を乗り越えた「萩しーまーと」の事例を手掛かりに探ります。
合理的な選択から離れることで成功した「萩しーまーと」
2001年、山口県萩市で一つの道の駅が開業しました。「萩しーまーと」です。当時、この施設の行く末を予測した人の多くは「失敗するだろう」と見ていました。人口約5万人の小さな港町。商圏人口を半径50km圏内に広げても15万人程度。道の駅の年間売上の平均が2億円とされる中で、勝算は薄いように見えました。
結果は、予測を覆すものでした。開業から3年で安定飛行に入り、5年目には単年度黒字を達成。年間利用者数は140万人、売上高は10億円を超え、坪効率は一般的なスーパーマーケットの2倍近い水準に達しています。商圏人口15万人で売上10億円超えという数字は、「普通ではありえない現象」と評されるほどでした。
成功までの道のりはこうです。開業準備の段階で、仕掛け人となった中澤さかな氏は、全国10カ所の「おさかなセンター」と30カ所以上の道の駅を視察しています。当初の計画は、観光客向けの海産物市場「おさかなセンター」をモデルにするというものでした。各地に成功事例があり、データの上でも合理的な選択に見えました。
しかし視察を重ねるうちに、中澤氏はある共通の課題に気づきます。観光市場は平日と休日、ハイシーズンとオフシーズンで売上が大きく乱高下し、経営の安定が難しい。「データが語る成功モデル」をそのまま踏襲する道と、ターゲットを地元客に絞り込み、地味な「公設市場」として再出発する道——。後者を選んだことが成功につながったわけです。
なぜ文脈が無視されるのか
コンサルティングにおける診察から処方箋の分岐点

「診察」の結果だけで結論を導いてしまう
一見不合理に見える選択が、データ上「合理的」だった選択を圧倒する結果につながることがある──。「萩しーまーと」の例はEBPM時代の政策のあり方に重要な示唆を与えてくれます。
中澤氏も、最初は「視察」というデータ収集行為から出発しています。しかし最終的な判断は、視察データの延長線上にあったわけではありません。ここに、現代のコンサルティングが陥りがちな構造的な問題が潜んでいます。
医療の現場には「診察・診断・処方箋」という三つの段階があります。診察は、検査や問診によってデータを集める段階で、現実の一断面を切り取った静止した情報です。診断は、集めたデータを、絶えず変化し続ける一人の患者という生命のプロセスの中に位置づけ直す段階です。医師は数値だけでなく顔色や声の調子、これまでの経過といった数値化しにくいものも統合して判断します。これが直観の働く場所です。そして処方箋は、その診断に基づいて、患者固有の文脈に合った治療方針を示す段階です。
今の地域コンサルティングの現場では、この三段階のバランスが崩れています。診察(データ収集と分析)が肥大化し、診断と処方箋が萎縮している。極端に言えば、検査技師が医師の役割まで担わされているといってもよい状態です。
情報やデータは、本質的に「静止した断片」です。ある時点、ある条件下での現実の切り取りに過ぎません。分析という行為もまた、対象を静止させ切り分けて観察するという、情報と同じ構造を持っています。
しかし現実そのものは止まっていません。地域経済も一つの企業も、絶えず変化し続ける生きたプロセスです。そこには諸行無常の世界が広がっています。この流れの中に身を置き、対象そのものに飛び込んでいく行為——それが診断であり、直観の働きです。データや情報をこの流れに接続したとき、初めてコンサルタントの提案は「生命力」を宿すのです。
診察だけで結論を出してしまうと、処方箋は文脈を欠いたものになります。データと論理は正確でも、それが患者という生きたプロセスに接続されていない。ビジネスの世界では、こうした状態を指す言葉があります。「手術は成功したが、患者は死んだ。分析は正しかった。しかし会社は倒産し、組織は空中分解した」──こうした例は珍しくありません。
「直観」が無視されると何が起こるのか|データ分析の後では直観は起動しない
フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、「直観から分析への道はあるが、分析から直観への道はない」と述べました。
直観とは、対象そのものに入り込み、その対象に固有の、二度と繰り返されない何かに触れる行為です。一方、分析は対象を既存の概念や記号に分解し、外側から記述する行為です。どれだけ精密な分析を積み重ねても、それを足し合わせれば直観に到達する、ということはありません。
地域コンサルティングの多くは、ここで分析から入ります。データを集め、ロジックを組み立て、結論を導く。その結論を提案として現場に持ち込んだとき初めて、「文脈」という壁にぶつかる。しかしベルクソンの言葉に従えば、分析から直観への道はありません。一度分析という型に入った思考は、後から直観を取り戻すことができないのです。
西田幾多郎は晩年、「行為的直観」という概念を提示しました。人間が世界を認識するのは、外側に立って対象を観察することによってではなく、世界の中で実際に行為し、世界と関わり合うことによってである、という考え方です。
中澤氏が開業前に30カ所以上の道の駅を「視察」したという行為は、単なるデータ収集ではありませんでした。実際に足を運び、現場の空気、客の動き、施設の佇まいといった数値化できないものに触れる——これは西田の言う行為的直観に近いものです。視察というデータ収集の行為そのものが、最終的に「観光客向けモデルではない」という直観的な判断を生み出す土壌になっていた、と見ることができます。
地域コンサルの提案が現場で機能しないのは、多くの場合データや論理が間違っているからではありません。分析という対象の外側に立つ視点から出発し、最後までその視点を離れることができないからです。直観「対象そのものに飛び込み、その流れの中に身を置くこと」を欠いたまま処方箋だけを書いてしまう。これが「刺さらない提案」が生まれる根本的な理由です。
広がる診察の肥大化
萩しーまーとが立った分岐点は、特殊な例外ではありません。同じ構造の分岐は、企業の経営判断の中でも繰り返し現れています。ここでは二つの事例を通して、「診察の肥大化」がどのように進行するのかを見ていきます。同様の構造は人材採用の現場にも見られます。(関連記事:「AI採用の落とし穴|なぜ「似た人材」しか集まらないのか」)。
【資生堂】プレステージ領域への集中という「正しい診断」
資生堂は2021年、TSUBAKIやSENKAなど、利益率の低い日用品(パーソナルケア)事業を投資ファンドに売却しました。一方で、北米の高級スキンケアブランド「Drunk Elephant」(2019年買収)、「Dr. Dennis Gross Skincare」(2024年買収)など、高価格帯・高機能なプレステージ領域への投資を強化しています。グローバルで戦える高粗利益率のブランドに経営資源を集中させる——データと論理だけを見れば、極めて合理的な戦略です。
しかし2024年12月期の連結決算は、売上高が増収となる一方で、純損益は108億円の赤字となりました。主因は、早期退職プランを含む構造改革費用(288億円)、そして過去に売却したブランドの売却対価が回収できない可能性への引当金(128億円)です。4期ぶりの最終赤字で、赤字は今後も続くとみられています。
日用品事業は、長年「街の化粧品店」や百貨店の美容部員による対面カウンセリングという泥臭い関係性の上に成り立っていました。そして日用品を通じて若い世代を取り込み、将来の高級品顧客へと育てていくという日本市場特有の循環構造の一部でもありました。
プレステージ領域への集中という「診断」自体が誤っていたわけではない。しかしその診断を実行する過程で、現場と顧客との間に長年積み重ねられてきた関係性という「文脈」が、コストの一項目として静かに切り離されていったという側面は否定できません。診察(財務データ)の上では正しく見える選択が、診断・処方箋の段階で、組織が持つ生きた関係性を置き去りにしてしまう——。これもまた「広がる診察の肥大化」の一つの形です。
【海士町】リゾート開発から「ないものはない」戦略に転換
島根県・海士町は、1993年に第三セクターによる「マリンポートホテル海士」を開業しています。当時、過疎・高齢化が進む離島において、これといった産業を持たない地域が交流人口を増やす手段として、リゾート施設による観光客誘致は、各地で採用されていた一般的な振興策でした。データの上では、十分に筋の通った選択だったはずです。
しかし、このホテル事業は町財政の大きな負担となり、海士町は2000年代初頭、「夕張市か海士町か」と並び称されるほど、日本で最も財政事情の厳しい自治体の一つになっていました。
2002年、山内道雄氏が町長に就任します。山内氏が最初に着手したのは、自身の給与の50%カットでした。覚悟を示したうえで、2004年には「海士町自立促進プラン」を策定。そして2011年、「ないものはない」というスローガンを掲げます。ないものねだりをせず、足元にあるものを探して磨いていく。CAS(特殊冷凍技術)による水産物の販路拡大、岩ガキや隠岐牛のブランド化、統廃合の危機にあった隠岐島前高校の魅力化など、島が元から持っていた資源と関係性に立ち返ることで、海士町は「地方創生のトップランナー」と呼ばれるまでに再生しました。
リゾート開発という選択は、当時の文脈の中では「正しい診察結果」でした。しかしそれは島の自給自足的な営みや、住民同士の関係性という、すでにそこにあった文脈を踏まえたものではありませんでした。海士町の再生は、外から持ち込まれた「正しそうな答え」を一度手放し、地元の文脈に立ち返って診断をやり直したところから始まっています。
分けたものを元に戻して見つめ直す
診察(データと分析)は、対象を要素に分け、それぞれを単独で評価します。その評価だけを見れば、「価値が低い」と判定されるものは少なくありません。
萩しーまーとの真フグは、その典型でした。萩で多く水揚げされていたものの、市場での評価は高くありませんでした。「漁獲量」「市場価格」という指標(診察の結果)だけを見れば、真フグは取るに足らない雑魚の一つです。
しかし中澤さかな氏は、この評価を地元の食文化という文脈の中に戻しました。地元では昔から食べられてきたが、外の市場価値とは結びついていなかった食材。その文脈に戻したとき、真フグは「地元ならではのもの」として再び意味を持ち始めます。結果、真フグは萩しーまーとを代表するキラーコンテンツの一つに育ちました。
診察によって分けられたデータを、もう一度もとの状態「地域の歴史、関係性、暮らしの中の意味」に戻して見つめ直す。これが、診断と処方箋の核心にある作業です。こうした「データの背後にある社会的文脈を読む」という視点は、ビジネスの世界で人類学的アプローチが注目される理由とも重なります。(関連記事:「なぜ今、人類学がビジネスで注目されているのか|ビッグデータで捉えられない文脈を読む」)
この作業は、企業の経営判断の場面でも同じように現れます。ある地方の製造業の社長のもとに、大手グローバル企業から技術提供の話が持ち込まれたとします。その技術を導入すれば、自社製品の品質は格段に向上し、売り上げも見込めます。データだけを見れば、受け入れるべき提案です。実際、多くのコンサルタントはこの提案を後押しするでしょう。
しかしその技術を導入すると、長年取引してきた地元の仕入先との関係を切らなければならない。その取引先の社長とは、若い頃から飲みに行く間柄でもある。縁を切れば、罪悪感から、もうあの店で一緒に飲むこともできなくなる——。
この「罪悪感」や「飲みに行けなくなる気まずさ」は、財務データには現れません。しかしそれは地域の中で長く事業を営んできたこの会社にとって、紛れもない現実の一部です。診察の結果だけを見て提案を進めれば、この文脈は切り落とされてしまうのです。
ここで重要なのは、提案を受け入れるか拒否するかの二択ではありません。グローバル企業の技術は試験的に一部の製品ラインで導入し、経済価値を取り込む。一方で、地元の取引先とは、大手には出せない、その土地ならではの別の事業に共同で取り組む。経済的価値と情緒的価値、双方を切り離さずに両立させる。これが、分けたものを元に戻して見つめ直すという作業のもう一つの形です。
まとめ|診断と処方箋を取り戻す
萩しーまーとの分岐点に、もう一度立ち返ってみます。「おさかなセンター」という、データの上では合理的なモデル。それを選ばず、地元客という、商圏人口だけ見れば心細い対象に向き合う道を選んだこと。その選択が、視察という行為の中で、地元の食文化や暮らしの文脈に何度も触れ直すことから生まれたのだとすれば、それは分析の結果ではなく、診断の結果だったと言えます。
情報は静止画です。現実は流れています。診察によって切り出された静止画を、もう一度この流れの中に戻し、文脈とともに見つめ直すこと——それが診断であり、処方箋を生命力のあるものにする唯一の道です。
地域コンサルの提案が刺さらないのは、データやロジックが間違っているからではありません。切り出したものを、元の流れに戻す勇気が欠けているからです。診断と処方箋を取り戻すことは、その勇気を取り戻すことに他なりません。

