減少する神社の数
全国で8万社──。コンビニの数(約5万店)より多い「神社」ですが、過去10年で700社近くの神社が減少しています(下図)。規模の大きい有名神社ではインバウンド客を中心に賑わいを見せているものの、氏神神社と呼ばれる町や村の小規模な神社では住民の姿も少なく閑散としています。
参拝客や祈祷の数が減る結果、神社の収入が減って神職者の数も減る。神職者不足によって神社の数が減るという悪循環です。ここ数年は神社や寺が事業目的で売買されるケースも増えており、医師・解剖学者の養老孟司氏が指摘するように、神社は存在価値そのものが問われる事態になっています。
一見、合理的な意味がなさそうな神社のような存在は心の落ち着きを保つ、一種の安定化装置でした。ところがそういうものを戦後の日本は壊していった。もちろん物理的に破壊したというのではなく、存在価値を否定していったということです。
「人生の壁」養老孟司
神社の数(宗教法人含む宗教団体)

原因は「自然離れ」
神社は人と自然の結節点
「神々は山に坐す」と言われるように、山は古来から「神々が宿られる場」と考えられ、人々は大きな木や巨大な岩を神様として崇め奉ってきました。天上から神を迎え入れ、守っていただき、再び送り戻すという神体山信仰のなかで、「人里に神が常駐する場」として生まれたのが神社です。
こうしてわが国には数えきれないほどの「八百万の神」が誕生し、神社は人と自然(神々)の結節点として地域のアイデンティティを支えてきたのです。
恵みを与える神ならば、迎えたり送ったりするのではなく、人里に常駐してほしいと願うようになる。そこで、神の常駐する所が神社となり、常に神が鎮座して、これを祀る人々に恩恵を与えるという。
「八幡神と神仏習合」逵日出典
近代化で自然との接点が薄れる
地域のアイデンティティを支えてきた神社──。今になってその存在価値が失われつつあるのはなぜでしょう。原因は人々の「自然離れ」にあります。自然から遠ざかることは、神々から遠ざかることを意味し、結果として神が常駐する神社の存在価値も低下していくことになるからです。
農耕生活の信仰は穀物の豊かな実りを祈ることにあるため、「自然に生かされている」という感覚が自然と身に付きます。しかし近代化によって農耕社会から工業社会、情報社会に移行し、人々の生活はどんどん自然から離れていきます。目の前の畑から取っていた野菜を
スーパーでお金を払って購入するようになる──。こうして現代人は自然に生かされているという感覚を失っていきます。
外で遊ばない子供たち
自然離れは子供たちの行動にも如実に表れています。世代別に「子どもの頃、平日にどれくらい外で遊んでいましたか?」と尋ねると、子どもは0~30分という回答が最も多いのに対し、親世代とシニア世代は2~3時間という回答が最も多くなっています(日本財団ジャーナル調べ)。今の子どもは圧倒的に外で遊ばなくなっています。
子どもは本来、自然に近い存在です。私の子ども時代は学校が終わるとすぐ神社のある山に遊びに行ったものです。山は冒険の場でワクワクする場だったからです。神社に着くと不思議と安心したのを覚えています。神社の安心感はお天道様を感じ取る機会となります。山の景色や空気は行くたびに変化します。そこから「物事は常に変化する」諸行無常を学ぶ機会になります。
つまり昔の子供たちは自然という不確実性を大いに楽しんでいたわけです。子どもは自然に接することで不確実な物事に対する耐性や感性を身に付けて大人になる。しかし今の子供たちはどうか。思い通りにならないと途端に不機嫌になり、誰かを攻撃したりします。子供たちは自然離れによって不確実性に弱くなっているのです。
子供の頃に外で遊ぶ時間(平日の放課後)

自然離れは孤独と不安を招く
自然に触れると不確実性を楽しむことができ、自然から離れると不確実性を恐れるようになる──。自然から離れた現代人は不確実性を過度に恐れるようになっています。
現代社会は「意味と目的」を求める世界です。意味も目的もない自然とは正反対です。仕事で良いアイデアが生まれても、上司から「根拠は何?何に役立つの?」と聞かれ、何も言えなくなるような経験はないでしょうか。アイデアがふと降りてきたとも言えず、後付けで理由を考えることの虚しさ。目的と意味を求める社会は「良いと思うから良い」「楽しいから楽しい」を認めません。
SNSの誹謗中傷、若者の自殺、高齢者の孤独死──。こうした社会問題は「目的と意味」を過度に求める社会が招いたものと言えます。それはとりもなおさず、自然という目的と意味をもたない世界との接点を失ったからです。
「宿命」を取り戻す
ここにきてはっきりしてきたのは、「人は自然から離れると不安になる」という事実です。私たちにとって自然は「宿命」です。意味や目的などで制御できない崇高な世界──それが自然だからです。自然が牙をむくとき、私たちの心の中には「仕方がない──」という感情が生まれます。そしてその宿命を足場として再び歩き出すのです。福田恒存は、私たちが求めているのは自由ではなく「宿命」であると語っています。
私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。私たちは自己の宿命のうちにあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌剌さを味わえるのだ。自己が居るべきところに居るという実感、宿命感とはそういうものである。
「人間・この劇的なるもの」福田恒存
目的と意味に縛られた現代社会は宿命という足場のない世界です。足場がないから私たちは踏ん張れずにネットの世界で宙ぶらりんになっています。かつては家と共同体が宿命の機能を果たしていましたが、両方とも機能不全に陥っているのは明白です。宿命を取り戻さない限り、現代人は不安と孤独から逃れられないと言っていいでしょう。
神社に行って自然と宿命を取り戻す
では私たちはどうしたら宿命を取り戻すことができるのか。それには宿命の大元である「自然」と向き合う以外ありません。そこで重要になるのが人と自然をつなぐ役割を持つ「神社」です。近所の「神社」に何度も足を運び、目的と意味に縛られた現代社会から逃れることで自然とのつながりを取り戻すことができます。
そして人間の身体も自然の一部であることを忘れてはいけません。
──こうした身体を使った行動を取り入れることも重要です。
資本主義・消費社会は自然から人を遠ざけるシステムです。その波に飲み込まれないよう、神社に足を運び、身体を意識した行動に心がける必要があります。