かごの中の人と天使

コロナ禍で消費者が「飛ぶことを忘れた鳥」になる? - 行動→習慣→思考停止の怖さ

消費者が買い物に「行く」ことを忘れる?

同じ買い物でも「モノを買う」と「モノを買いに行く」は似て非なるものです。

前者はモノの購入を目的とした「用事」としての買い物ですが、後者はそこにモノを購入する「プロセス」が加わります。外に出かけて買い物を楽しむプロセスです。

新型コロナウイルスの感染拡大によって多くの消費者は後者の「モノを買いに行く」行動を著しく制限されました。買い物の多くは「モノを買う」行動がメインとなり、ネット通販やテイクアウトサービスの利用が急増しました。

私の知人もテイクアウトサービスを頻繁に利用するようになったそうですが、そうはいっても友人や家族とお店に出かけて楽しく会話しながら食事をしたい、と言っています。これは用事としての消費だけでは物足りない、プロセスを楽しみたいと言っているわけです。

ではこんなシナリオは考えられないでしょうか。テイクサービスの利用頻度が増すにつれ、いつしか「外で食事を楽しみたい」とも思わなくなる。買い物や食事に「行く」なんて思いつかない。

カゴの中の鳥」はいつか大空に羽ばたきたいと願いますが、カゴの中に居続けると大空で羽ばたくことを忘れると聞きます。「飛ぶことを忘れた鳥」のように人間も買い物に「行く」ことを忘れてしまう。SF映画のワンシーンのようですが、現実にこんなことは起こりうるものでしょうか。

カゴの中にいる時間

私はこのようなシナリオは望んでいませんし、むやみに危機感を煽るつもりもありません。しかし今の状態が思った以上に長期化するとなると話は別です。私たち消費者が「カゴの中の鳥」から「飛ぶことを忘れた鳥」にならないとは限らないからです。

カゴの時間が短いと: 喉元過ぎれば熱さ忘れる

まずカゴの中にいる時間が短いケースを考えてみます。

喉元過ぎれば熱さ忘れる」というように、人は辛いことをいつまでも覚えていられないようになっているようです。世界中がテロの恐怖に打ち震えた9.11(2001年世界同時多発テロ)、津波と放射線の恐怖に怯えた3.11(2011年東日本大震災)。こうした未曽有の危機でも、事態が収束に向かうにつれて多くの人々は元の生活に戻っていきました。

なぜ元に戻っていったのか。これにはショックによる「行動時間の長さ」が関係しているように思えます。9.11直後は飛行機に乗らない人が増えましたが、それほど時間を置かずに人々は飛行機に乗るようになりました。3.11では原発事故直後に東北の農産物が敬遠されたりしましたが、今は普通に東北の農産物がスーパーに並んでいます。

元に戻ったのは、「飛行機に乗らなかった時間」も「東北の農産物を買わなかった時間」もそれほど長くなかったからです。カゴの中にいる時間が短ければ、人は元のように外に出たいという気持ちに戻っていくようです。まさに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」です。

今回のコロナ禍も今までの危機と同じだとすれば、「外<内」に変化した消費者の行動も再び元の「外>内」へ戻り、友人や家族と一緒に買い物やコンサートに出かけるようになるでしょう。

カゴの時間が長いと: 習慣・因習となって思考が止まる

問題はカゴの中にいる時間が長くなるケースです。つまりコロナ禍の生活が予想以上に長引いた場合です。

この場合、「外<内」の生活行動が習慣化・因習化してしまう可能性が高くなりますカゴの中の鳥はもはや大空に出たいとすら思わなくなり、カゴの中の生活を自然に感じるようになるということです。

人は良い環境はもちろんのこと、望んでいない環境であっても時間がたてば馴れていく生き物です。習慣化・因習化された行動には、思考が働かなくなるからです。

習慣・因習が思考停止を生む

習慣・因習が思考停止を生む

「速い思考」と「遅い思考」

行動経済学者のダニエル・カーネマンが著書「ファスト&スロー」で指摘しているように、私たちには「速い思考」と「遅い思考」があります。速い思考は「朝起きたら歯を磨く」のように自動的に発動するもので、日常生活の大半を担っている思考です。これに対し、遅い思考は論理的な判断が求められるような場面で発動されます。

望んでなくても時間が経てば速い思考が支配し習慣化する。多くの消費者は今、外で買い物をしたりコンサートや旅行に行けないことにストレスを感じていますが、この状態が長く続けば速い思考が優位となり、やがて「内」中心の生活にストレスさえ感じなくなるというわけです。

下の図はコロナ禍に取った行動が、当初は意に反したものでも長期化することで定着化する流れを示したものです。

マスクの着用やソーシャルディスタンスはコロナ対策として皆が意識して取っている行動の一つですが、決して心地よいものではありません。しかしこの状況が長く続けば速い思考が発動され、当初の違和感もなくなって習慣化・因習化するかもしれないのです。

本性に反していても習慣化すれば定着

本性に反していても習慣化すれば定着

「通勤」は習慣→思考停止の典型

テレワークのようにコロナ対策として取った行動が「望ましい」「心地よい」と感じるものであれば、習慣化・因習化は大歓迎です。しかし「望ましくない」「心地よくない」と感じた行動がいつしか因習となって定着するのは生活の質を落とすことになります。

コロナ禍の行動が定着するとはずいぶん大げさではないか、との見方もあるかもしれません。しかし多くの識者が今「ニューノーマル」という言葉を使いはじめています。ニューノーマルとはコロナ禍の行動が定着するという意味です。テレワークのように望ましい行動もあればそうでない行動も含んでしまうのがこの言葉の怖さです。

私たちの行動には、習慣化・因習化となって思考が働かなくなったものが数多くあります。その代表が「通勤」です。コロナ禍でテレワークに移行し、いかに通勤が苦痛で意味がないものだったのかを思い知ったという声を頻繁に耳にします。

かつての高度経済成長期のように、労働者を一か所に集中させることで効率が上げられるような仕事が多かった時代では、通勤には一定の意味がありました。しかし知識労働が主体になっていく中で、一か所に人を集めておく必要性は低下していたはずです。

にもかかわらず、習慣化・因習化された行動には思考が働かないため、時代が変化しても当たり前のように満員電車に乗っていたわけです。

習慣化・因習化を食い止める

カゴがなくなれば外に出てくれるとは限らない

「カゴの中の鳥」はカゴがなくなれば再び大空に元気に飛んでいきますが、カゴの中に長時間居続けるとその状態に順応し、飛ぶことすら忘れてしまう。

ソーシャルディスタンスやマスクの着用などのコロナ対応も長時間続けばいつしか習慣・因習となり、危機が去ってもその状態から抜け出せなくなる可能性は十分あるのではないでしょうか。

飲食、宿泊・観光業者、エンタメ業者は、テイクアウトやオンライン等を活用したサービスを導入しながら必死に危機を乗り切ろうとしています。それもこれも感染拡大が収束し消費者を囲っているカゴがなくなれば、元通り外で楽しく消費活動をしてくれるだろうという「希望」があるからでしょう

しかしその「希望」はカゴの中の状態が長引くことで打ち砕かれる可能性があります。洋服はネットショップ、飲食はテイクアウト、ライブはオンラインという具合に、カゴの中の行動が習慣・因習となり、いつしか外に買い物に「行く」ことを忘れてしまう。

消費者にとってそれがニューノーマルとして望ましい消費行動であれば企業もそれに合わせて変化すればいいわけですが、外に出て楽しむことが人間の本能的欲求だとすれば悲劇としかいいようがありません。

カゴの外にはこんな楽しい空間がある

飲食、小売店は目の前のコロナ対応に必死かもしれませんが、取り組みのほとんどはカゴの中を前提としたサービスです。今はそれしかやりようがないというのも十分理解できますが、その状態が長引くと消費者がカゴの中から出られなくなるかもしれない。この点を強く認識しておく必要があります。

コロナ収束後も消費者がカゴの中から出てこないとなると、飲食、音楽、旅行といったサービスの価値が根底から揺らぐことになります。業界自体が消滅する可能性すらあるのです。

コロナが収束したらこんな楽しい空間が待っている!

企業はコロナ禍で苦しい中でもこう感じさせる取り組みをしなくてはなりません。

SNSでシェフが料理の魅力を伝え、ソムリエが店内のサービスを紹介することで、次はテイクアウトでなく「お店で美味しい料理を楽しみたい」という熱量が高まります。

カゴの外にはこれだけの魅力的な空間がある。今はこの空間をより魅力的なものにする準備をしている。カゴの外にある楽しい空間を忘れさせないことが重要です。

家族との会話、調理、読書など、コロナ禍は今まで私たちが軽視してきた「内界」の魅力と楽しさを教えてくれましたが、同時に外界の魅力と楽しさを再認識する機会であってほしいと思います。