野菜を手渡しする

今こそ必要な「おすそ分け文化」-おすそ分けは孤独と物価高を緩和する

減少する「おすそ分け」

  • 「今年はナスが多く取れたから」
  • 「煮物、作りすぎちゃって」

などと言いながら、近所の誰かが「何かをもって」やってくる。おすそ分けの光景です。私は両親が共働きでしたので、学校から帰宅するとよく玄関に野菜が置いてあったのを記憶しています。

おすそ分け(お裾分け)とは「着物の裾の部分を分け与える」ことから生まれた言葉です。そこには「余ったものが無駄になってしまうので、もらってください」という意味が込められています。もらった側は次に自分が何か作りすぎた時にその人にお返しすればよい。相手に気を遣わせないコミュニケーション手段。それがおすそ分けです。

しかし先日ある知人から「おすそ分けがここ数年でめっきり減った」と聞いて驚きました。コロナ禍もあったからそう感じるのでは?と返すと、だいぶ前から続いている現象のようなのです。

事実はどうなのか。おすそ分けを直接調査した統計はありませんが、家計調査(総務省)と国民健康・栄養調査(厚生労働省)からおすそ分けの量を推計することができます。下のグラフは野菜のおすそ分けの量を指数化したものですが、過去10年以上にわたって減少ないし停滞しているのが分かります。沖縄県や長野県のように、おすそ分けが文化として根付いている地域もありますが、全体でみるとおすそ分けの量は減っているのです。

野菜の「おすそ分け指数」の推移

野菜の「おすそ分け指数」の推移
(注)おすそ分け指数=野菜摂取量÷野菜類の実質支出額
(出所)総務省「家計調査」厚生労働省「国民健康・栄養調査」より作成

なぜおすそ分けは減っているのか

おすそ分けがこれほど減少しているのはなぜでか。以下3つの要因が大きく関係していると考えられます。

①近所付き合いの希薄化

おすそ分けは近所付き合いの一環として行われる習慣です。その近所付き合いが近年希薄化しているのは言うまでもありません。内閣府の調査によると、地域の人と親しく付き合っている人の割合は、75年の52.8%から2022年には8.6%と6分の1まで低下しています。

近所付き合いが減少している背景には、少子高齢化、共働き世帯の増加、単身世帯の増加などの社会構造の変化があります。

子供は近所付き合いの「きっかけ」を与えてくれる貴重な存在です。近所の子供同士が仲良くなり、互いの家に遊びに行くようになることで自然に親同士も仲良くなる。そこから近所付き合いが始まるものです。子供の数が減れば近所付き合いも減り、結果としておすそ分けが減るのは当然です。

②機械的な街づくり

街づくりのあり方もおすそ分けを減少させる一因になっています。人間同士が自然と交流できるような街は近所付き合いを円滑にし、おすそ分け文化の形成につながるからです。

人間同士の営みから自然と立ち上がってくる。これが本来の街づくりのはずです。しかし近年はマンションや学校・病院・福祉施設などの「箱」がはじめに用意され、その箱を設計図とした街づくりが進められてきました。人間同士の自然な営みからかけ離れた「機械的な街づくり」です。

ゴーストタウン化したニュータウンに象徴されるように、機械的な街づくりは人口が減りはじめた瞬間綻びが出ます。かつて人工的に整理された筑波学園都市では、建物の遮音性が高すぎるストレスから研究者の自殺が急増する事態になりました。人の気配を感じない機械的な街でおすそ分け文化など生まれるはずがありません。

③スマホの普及

おすそ分けの減少傾向に追い打ちをかけるのがスマホの普及です。目の前にいる誰かより「画面の向こう側にいる誰か」へ関心を奪っていくのがスマホです。

「子供のブランコを片手で押しながら、もう一つの手でスマホをいじっている」――このような光景は珍しくありません。スマホでマルチタスクすることに慣れ切ってしまい、子供をブランコで押すのも一つのタスクのように処理しているようにも見えます。

画面の向こう側に関心が行き過ぎると顔の見える人間関係、すなわち近所付き合いが煩わしくなり、結果としておすそ分けも減っていきます。

今こそ、おすそ分け文化が必要な理由

「近所付き合いが面倒なので、おすそ分けはいらない」「おすそ分けがなくてもスーパーで同じものを買えばいい」――近所付き合いもおすそ分けもない生活で幸せに暮らせるのであれば、おすそ分けは時代遅れの習慣として消えていくのでしょう。しかし、もしそうでないとしたら。私は今の時代だからこそ、おすそ分け文化が必要だと考えます。

孤独を緩和する

このまま希薄化する近所付き合いにまかせておすそ分け文化まで失ったら何が起こるでしょう。そこに待っているのは今より深刻な孤独です。2040年には「2人に1人は単身者」と推計され、本格的なソロ社会が到来するのはほぼ確実です。それでも「スマホで〇〇万人とつながってるから寂しくはない」などと言えるでしょうか。

自助と公助では対処しきれないのが孤独問題です。必要とされるのは、身近な人同士で助け合う「共助」です。「一人暮らしで何かあっても隣に助けを求められない」。こうした事態を回避するためにも近所付き合いを通じた共助は不可欠です。その共助を深める上で「おすそ分け」ほど優れた交流ツールはありません。

贈与経済(非貨幣経済)で物価高に対処

おすそ分けが必要とされるもう一つの理由が、私たちが今直面している物価高にあります。市場経済(貨幣経済)は価格メカニズムによって効率的な資源配分を可能にしますが、異常気候のようなショックが起こると価格が瞬時に反応し、苦しい物価高をもたらします。

一方、価格変動の影響を受けにくいのが贈与経済(非貨幣経済)です。おすそ分けは典型的な贈与ですので、おすそ分けが浸透している地域では物価高の影響を最小限に抑えることができます。実際、長野県や鹿児島県などおすそ分け文化が浸透している地域では、野菜の値段が上がってもそれほど大きな影響はないと聞きます。シェアリングエコノミーが広がっているように、非貨幣経済の重要性はますます高まる方向にあります。

貨幣経済市場経済
資本主義経済
非貨幣経済贈与経済(おすそ分け)
物々交換経済

おすそ分け文化を復活させるには

おすそ分け文化を復活させるのはそう簡単ではないかもしれません。それでも、おすそ分けの大切さについて過去から学び、少しずつ行動に移すことで、点が面へと広がっていく可能性は十分あります。

【学ぶ】江戸時代に学ぶ

おすそ分けの良さを知るには、おすそ分けの原点を知るのが一番です。日本の伝統的コミュニティは元来、贈与・互助によって成り立っていました。なかでも270余の藩が独立採算で自立していた江戸時代の村にはおすそ分けの原点を見出すことができます。

複数の農家が人を出し合って田植えなどを行う「結(ゆい)」、安産・子供の成長を祈願して主婦衆が食事をする「子安講(こやすこう)」、僧侶や神職らが村の子供たちに読み・書き・そろばんを教える「寺子屋」などは、地域の人々が支え合って生きるための具体的な知恵から生まれた営みです。これらの贈与・互助的な活動がおすそ分けとなって現代社会に引き継がれたと考えられます。

【行動する】「自家菜園」でおすそ分けニーズを増やす

おすそ分け復活に向けた具体的な行動とは何でしょう。一つはおすそ分けが生まれるような行動を生活の中に取り入れることです。即効性がありそうなのが自家菜園です。団塊世代の高齢化で自家菜園をする人の勢いが落ちましたが、コロナ禍を機に若い人を中心に自家菜園を始める人が増えてきました。市民が農園をシェアして農作物を栽培する市民農園も活発になっています。

自家菜園は自然とおすそ分けニーズを高めます。自分で育てた野菜を手にすると「誰かにあげたくなる」からです。物価高で苦しい中、野菜のおすそ分けは相手も喜んでくれるはずです。

【行動する】「デジタルデトックス」で身近な人に目を向ける

デジタルデトックス・スマホ断ちも有効です。意図的にスマホを見ないようにすることで、顔が上がって自然と周りの景色に目が行くようになります。その景色の先には近所の人がいますので挨拶を交わすようになる。希薄化した近所付き合いが戻っていき、仲が良くなるとおすそ分けする関係になります。

【行動する】「生命体としの街づくり」を目指す

自治体や地元企業の活動も重要になります。上述したように人の気配を感じない機械的な街づくりで人のつながりは生まれません。そこで注目されるのが自然都市と呼ばれるような「生命体としての街」です。生命体としての街とは、人間同士の営みや動きに合わせて、街や建物がデザインされているような街です。プラモデルのように街を作るのではなく、子供やペットを育てるような感覚で街づくりに携わる。

先の筑波学園都市の例には続きがあり、街に飲食店を増やしたことで自殺が収まったそうです。赤ちょうちんがいっぱいできたことで街に人の気配を感じるようにり、住民の精神衛生状態が改善されたのです。人間同士の営みが反映された街では自然と近所付き合いが生まれ、おすそ分けをする人も多くなるに違いありません。

まとめ

他者との競争の中で「あなたらしさ」を要求され(自助)、競争からこぼれ落ちるものを国がカバーする(公助)。自助と公助による社会システムの限界は誰が見ても明らかです。

今必要なのは「共助」です。江戸時代のような人間同士が助け合う自然な営みをベースとした贈与経済です。市場経済(貨幣経済)で解決できない問題を贈与経済(非貨幣経済)が担うことで、社会は再び安定性を取り戻すことができる。そう考えることはでいないでしょうか。

贈与経済を軌道に乗せるには人間同士の自然な営みを取り戻す必要があり、その象徴が「おすそ分け」なのです。