一人

なぜ今「ソロ活」なのか-現代社会で失われつつある「感覚」を取り戻す

世はソロ活ブーム

4割は単身世帯

積極的にひとりの時間を楽しむ活動を意味する「ソロ活」。ここ数年、新聞・雑誌・テレビ等で見聞きするようになった言葉です。

  • ソロキャンプ
  • ひとり焼肉
  • ひとりカラオケ
  • 孤独のグルメ
  • ポツンと一軒家
  • ソロ活女子のススメ

などなど。コロナ禍でひとりの時間や行動が増える中でソロ活はより一層注目されてきた感があります。

ソロ活ブームの背景には単身世帯の急増があるのは言うまでもありません。20年の国勢調査によると、単身世帯の一般世帯に占める割合は38.1%。夫婦のみ世帯20.1%、夫婦+子供世帯25.1%より大きいのです。しかも国立社会保障・人口問題研究所による2018年推計値によると、未婚や死別・離別で配偶者のいない15歳以上の単身者は4割を超え、2040年には約47%が単身者となる見通しです。「2人に1人は独身」という本格的なソロ社会が目の前に到来しつつあるのです。

増加する単身世帯

増加する単身世帯
(出所)総務省「令和2年国勢調査」

ソロ活は単身者だけの活動ではない

しかし「単身世帯が増えたらソロ活が増えた」と単純に結論付けてはソロ活ブームの本質を見誤ることになります。なぜなら、ソロ活は単身者だけの活動ではないからです。家族がいる人でも、

  • 気になっていたレストランで好きな料理を存分に味わいたい
  • ひとりキャンプで自分だけの時間をゆっくり過ごしたい
  • 周りを気にせず好きな曲を歌いたい
  • 新しい趣味にチャレンジしたい

といった具合に、「ひとりのほうが居心地よい」場面はたくさんあります。その時々の目的や状況に応じて「ひとりでいることを能動的に選択する」のがソロ活の本質です。ソロ活のベースにあるのは「ひとりでいたい」というニーズです。

「孤独(solitude)」と「寂しさ(isolation)」の違い

ひとりでいることを能動的に選択する。ハンナ・アレントはこのような状態を「孤独(solitude)」と呼び、「寂しさ(isolation)」と明確に区別しています。アレントの定義では、

  • 孤独(soltitude)「私が私自身と一緒にいられる状態」
  • 寂しさ(isolation)「私が私自身と一緒にいられず、他人を探しに行ってしまう状態」

となり、孤独は自分と向き合う非常に貴重な時間と捉えます。つまり、アレントの定義に従えば、ソロ活とは「自分としっかり向き合って孤独を楽しむこと」となります。

ソロ活とは感覚世界を取り戻す活動

ではなぜ最近になって、「ひとりでいたい」「ひとりで行動したい」と思う人が増えているのでしょう。そこには、

現代社会で失われつつあるものを取り戻そうとする姿

が透けて見えるような気がします。現代社会で失われつつあるもの。それは「感覚」です。

現代社会は「意識>感覚」に向かわせる

私たちの脳の働きは以下のように、入力(感覚)から意識を経て出力(行動)という経路をたどります。まず外部から刺激を受けて「感覚」が立ち上がり、それが何であるかを「理解」します。次に起きたことを「解釈・評価」して「行動」に移します。

  1. 外部からの刺激(感覚)
  2. 理解(感覚+意識)
  3. 解釈・評価(意識)
  4. 行動

感覚とは、視覚(見る)・聴覚(聴く)・味覚(味わう)・嗅覚(嗅ぐ)・触覚(皮膚で感じる)の五感で捉える機能です。一方、意識とは「ああすれば、こうなる」という理屈を立てたり、周りの空気を読んだり他者の気持ちを推し量ることです。脳でいうと、感覚は「感覚野」と呼ばれる部位、意識は社会脳と呼ばれる「前頭葉」を使うことが知られています。私たちの一日の行動を振り返ると、

  • 朝起きてSNSをチェック
  • 大量のメールを読んで返信
  • 上司の指示に従って作業する
  • 作業途中で突然オンラインミーティングに招集される

といった具合に、現代社会における私たちの行動の大半は「意識」で占められており、「感覚」が登場する機会は極端に減っています。食事は感覚を使う重要な行動の一つですが、最近はSNSをみながらランチする人を多く見かけます。そうなると、

  1. 感覚(味わう)<意識(SNSの投稿)
  2. 意識支配のまま午後の仕事に突入
  3. 脳が疲労しているので仕事が捗らない

といったことになります。著書「バカの壁」で有名な養老孟司先生は、五感で捉えられる世界を感覚世界、それによって脳内に生じる世界を概念世界と呼んでいます。ここでいう概念世界は意識世界とも言い換えられるでしょう。

感覚の世界は「違い」によって特徴づけられる。概念の世界は、他方、「同じ」という働きで特徴づけられる。

「無思想の発見」養老孟司

上記のように、感覚世界と概念世界(意識世界)は「違い」と「同じ」で特徴づけられます。養老先生は、4個のリンゴは感覚世界では別々のものであっても、概念世界では「4個のリンゴ」となって同じ塊になると指摘しています。つまり、

  • 感覚世界「替えのきかない存在
  • 概念世界(意識世界)「替えのきく存在

と定義づけられます。これを仕事に置き換えると、概念世界では4人の社員は「4人の労働力」と変換されるということです。人が労働力に変換されると、能力やスキルによって記号化され、最終的に「替えのきく存在」になってしまうわけです。

意識世界と感覚世界

意識世界と感覚世界

「意識>感覚」は心を疲労させる

養老先生が指摘するように、意識が支配する概念世界では人は「同じ」になり「替えのきく世界」に巻き込まれることになります。当然ながら自分が替えのきく存在になることは心を不安定にします。

自分の存在とは何か?

こうした疑問が沸き起こって虚無感に襲われる人が増えるのも当然ではないでしょうか。しかも最近は仕事の人間関係から離れてもSNS上の人間関係が待っています。「いいね」を求める承認欲求の渦に巻き込まれ、意識は一向に休まりません。

交換不可能なあり方が現存在(人間)の本来のあり方であるとすれば、日常のあり方は、現存在本来のあり方を見失った「非本来的」なあり方である。

「ハイデガー」貫成人

「存在の意味」を問い続けた哲学者ハイデガーはこのように指摘しています。意識をフル稼働させる経済社会活動は人間にとっては非本来的なあり方であるとすると、ハイデガーの言う本来的なあり方を取り戻すには身体的な「感覚世界」の時間を増やす以外ありません。そうした意味でソロ活とは、

感覚世界を取り戻すための活動

と捉えられるのではないでしょうか。

ソロ活事例からみる感覚世界

ソロ活とは感覚世界を取り戻すための活動

と、だいぶ抽象的な書き方が続きましたので、ここでソロ活がなぜ感覚世界を呼び起こす効果があるのか、実際のソロ活事例を取り上げながら確認してみます。

「孤独のグルメ」-胃袋に導かれて

ソロ活ドラマの走りと言えるのが、2012年に放送が始まった「孤独のグルメ」(テレビ東京)。シーズン9(2021年)まで続く大ヒットドラマです。

ドラマは前半の仕事シーンとメインとなる後半の食事シーンの2つの場面から構成されています。仕事シーンでは、主人公の井之頭五郎がクライアントの無茶ぶりに冷や汗をかきながら対応するなど、サラリーマンなら誰もが共感する内容です。そして仕事がひと段落したところで、いよいよお決まりのセリフ「腹が・・減った・・」が出ます。

仕事シーンは意識世界に、食事シーンは感覚世界に見事に対応しています。クライアントとのやり取りで疲れた前頭葉が休みたいとばかりに「腹が・・減った・・」と感覚野にバトンタッチするわけです。「俺の胃袋はいま何を求めているのか」というセリフからわかるように、もはや意識は存在せず胃袋に導かれるように感覚世界に入っていくわけです。

「意識世界⇒感覚世界」の流れはソロ活ドラマの鉄板です。最近のドラマでは「ソロ活女子のススメ」もこの流れで構成されています。

「ポツンと一軒家」-自然と顔の見える人間関係で感覚世界と接続

「自然×ソロ活」をテーマにした番組と言えば「ポツンと一軒家」です。「こんなところに誰が住んでるの?」と聞きたくなるような人里離れた一軒家に暮らす人にフォーカスします。この番組をみて地方移住を決意した人も多いようです。

この番組がソロ活マインドを刺激するのは、ポツンと一軒家の暮らしぶりそのものが感覚世界だからです。感覚世界に導く最大の要素が「自然」です。仕事で意識を使い果たした視聴者は、自然としっかり向き合いながら暮らす人の姿に癒されます。

感覚世界に導く2つ目の要素が「顔の見える人間関係」です。取材陣がポツンと目指す一軒家について地域住民に尋ねると、ほとんどの人が「〇〇さん」と即答、目的地まで直接先導してくれます。ポツンと一軒家に暮らす人は決して「孤独」なのではなく「替えのきかない存在」として地域住民と結ばれているのです。大企業やSNSのような顔の見えない関係性とは異なり、必要以上に意識を使わなくて済むわけです。

「ひとりスポーツ」-自分の「身体」と向き合う

意識世界から感覚世界へスイッチを切り替える方法として有効なのは体を動かすことです。サッカーや野球のような人間関係を伴うスポーツではなく、トライアスロンやジョギングのような「ひとりスポーツ」が効果的です。多忙な経営者が仕事の合間にジムに行くのは、意識世界から感覚世界へのスイッチングをするためと言えます。

ポツンと一軒家のようにいつでも自然に触れられる環境にいればよいのですが、都市に住んでいるとそうもいきません。自然よりもっと身近に感覚世界に接続できる方法が「身体に向き合うこと」です。身体は替えのきかないものです。身体を構成する細胞分子は絶えず入れ替わっていますので、昨日の自分と今日の自分は「違う」。仕事場では替えのきく存在となっても、自分の身体は替えがきかない

そんな替えのきかない自分を実感するには「ひとりスポーツ」がうってつけです。

「料理教室」「読書」はソロ活とはいえない

ソロ活と言われる活動の中にも若干疑わしいものがあります。

  • 料理教室
  • カラオケ教室
  • オンラインゲーム(囲碁など)
  • SNS・ブログ
  • 読書

こうした活動はソロ活と呼べるでしょうか。ソロ活を「感覚世界を取り戻す活動」と定義すると、これらの活動は対人関係が入ってくるため意識世界と接続します。料理教室ではお互いの料理の感想を言い合ったりしますが、自分の料理を褒めてもらいたいという承認欲求は意識活動になるからです。私のこのブログも一人で作成しているという点でソロ活ですが、多くの人に読んでもらいたいという「意識」を使ってますので感覚世界の活動とはいえません。

ポツンと一軒家のような人間関係であれば人を意識することもないでしょうが、料理教室のような場はどうしても人を意識してしまいます。他人の評価を意識してかえって心が疲れる。一見ソロ活にみえても対人関係が伴う活動には注意が必要です。

意外かもしれませんが「読書」もソロ活とは言い難いです。ひとりで本を読む行動はソロであることに違いはないのですが、使っている脳は完全に前頭葉(意識)だからです。読書に感覚をプラスするには、

  • 電子書籍ではなく「紙の本」でページをめくる
  • 公園など自然と触れる場所で読む

などの工夫が必要かもしれません。

大事なのは意識世界と感覚世界のバランス

仕事や対人関係など意識をフル稼働している現代人にとってソロ活は失われた感覚を取り戻すきっかけを与えるものです。私たちはもっと積極的に感覚世界の時間を増やす必要がありそうです。

一方、意識世界を避けて感覚世界に進みすぎるのも問題です。意識<感覚でも心は不安定になるからです。典型が「自分探し」です。世間という意識世界からただ逃げただけでは存在の意味を知ることなど出来ません。重要なのは自分探しではなく、自分の目(感覚世界)と他人の目(概念世界)を自分について合わせていくこと。養老先生は『世間と思想は対立概念ではなく補完的な概念』と語っています。

  1. 自分は「替えのきかない存在」(感覚世界)
  2. 人は「社会的文脈の中でしか生きられない」(意識世界)

感覚世界と意識世界にバランスよく接続し続けることで心は安定するのだと思います。ソロ活は「意識>感覚」を「意識≒感覚」にする効果があり、それ以上でも以下でもない。そのような認識が必要だと思います。