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AIが持てない『70年分の時間』 | 「ヘタウマ」が希少価値になる時代とは

AIの普及により、あらゆるサービスが高度に洗練され、隙のないシステムへと進化しています。しかし皮肉にも、その完璧さが人間らしい「余白」を奪い、共創の種さえも消し去ろうとしています。この閉塞感を打破する鍵こそが、不完全なのになぜか人々を惹きつけてやまない「ヘタウマ」の概念にあります。

ヘタなのに惹かれる「ヘタウマ」

「うきはの宝」のおばあちゃん

福岡県うきは市の山間に、全国から注目が集まるベンチャー企業があります。「うきはの宝」は、75歳以上のおばあちゃんたちが主役を務める食堂・商品開発・動画配信を手がける会社です。包丁さばきはおぼつかないこともあり、調理の手際はプロのシェフには遠く及びません。

しかし代表の大熊充さんが意図的に設計したのは、まさにその「余白」でした。「どうすればもっと良くなるのか」──そう感じた周囲が自然と関わりはじめます。行政、大手企業70社超、さらには米スタンフォード大学の長寿研究所まで調査に訪れ、「日本経済を活性化させるヒントがある」と絶賛しました。技術的には「ヘタ」なのに、共創の輪は予測を大きく超えて広がり、高い収益性とロイヤリティが生まれたわけです。

「巣鴨の漫談ツアー」のおばあちゃん

同様の現象が、「おばあちゃんの原宿」こと巣鴨でも起きています。地域の歴史を知り尽くしたおばあちゃんが案内するウォーキング漫談ツアーは、プロの添乗員と比べれば明らかに「ヘタ」なガイドです。話は脱線し、予定にない路地裏へ寄り道することもしばしば。しかしその飾らない言葉と地域への深い愛情から漏れ出る「計算不可能な熱量」が、参加者をいつの間にか「客」から「身内」のような当事者へと変えてしまいます。

「おばあちゃん、そこはこうじゃないの?」──参加者が口を挟んだその瞬間に、一方的な「観光消費」は終わり、その場限りの共創価値が生まれます。完璧に洗練されたプロのガイドツアーには絶対に起きない。これも「余白」があるからこそ生まれる体験です。

「葉っぱビジネス」のおばあちゃん

3つ目の事例は、徳島県上勝町の「葉っぱビジネス(株式会社いろどり)」です。人口わずか1,400人余りのこの山村で、70歳以上のおばあちゃんたちが料亭や寿司屋の料理に添える「つまもの」の葉を山から収穫し、最盛期には年商2億6000万円を記録しました。年収1000万円超えのおばあちゃんも現れ、町おこしの奇跡として国内外のメディアが相次いで取材に訪れました。

きっかけは、仕掛け人の横石知二さんが大阪の料理店で目撃したひとつの光景でした。若い女性客が料理に添えられた一枚の紅葉を「きれい」と感動し、ハンカチに包んで持ち帰ったのです。「上勝の山にならどこにでもある──葉っぱを売ろう!」。そのひらめきは、農協の男性陣に「そこらの葉っぱで儲けるとは何事か」と総スカンを食らいます。ゼロからの、手探りの出発でした。

しかしおばあちゃんたちの「長年山を歩いて培った季節感」「葉の大小や色を選り分ける丁寧さ」という、プロの農家には持ち得ない「素朴な目利き」が、高級料理店の料理人の心をつかみました。さらに横石さんが料亭の現場を見せるとおばあちゃんたちの目の色が変わり、「世界中探してもこんな楽しい仕事はないでよ」「忙しゅうて、病気になっとれんわ」という笑顔が生まれました。農協・料亭・若いインターン生・世界中からの視察者──多様なステークホルダーが次々と引き寄せられ、共創が連鎖していったのです。

「不完全」だからこそ

うきはの宝、巣鴨の漫談ツアー、上勝の葉っぱビジネス。これらの事例に共通するのは、「不完全さ」が引き金となって「助けたい」「関わりたい」「もったいない」という感情が喚起され、予測を超えたステークホルダーが自発的に集まってくる、という構造です。ロック界のレジェンド、キース・リチャーズのギタープレイが揺れや歪みによって唯一無二のグルーヴを生むように、「ヘタ」であることが聴き手の魂を揺さぶり、共鳴を起こすのです。

ヘタウマの価値構造

「ヘタウマ」とは、単なるスキルの欠如ではありません。「技術的な未熟さやミスを、他者の介入余地(余白)へと転換し、結果として高い価値や収益を生み出している状態」と定義できます。この価値構造を、技術力(スキル)と収益性(価値創出)の2軸から読み解くと、4つの象限が浮かび上がります(図表)。

まず「右上:最適化されたプロ(ウマウマ)」は、高い技術力と高い収益性を両立させた信頼の象徴です。標準化された高品質なサービスを提供しますが、効率化を極めるほど代替可能性が高まり、人々の感情を揺さぶる「物語」や熱量が生まれにくくなるという構造的な限界があります。誰も完璧なチェーン店に「応援したい」とは感じないのです。

「右下:自己満足の職人」は技術的には完璧です。しかし「自分の正解」を優先するあまり、他者が入り込む隙を排してしまいます。丹後の職人が長年B反を廃棄し続けたのも、外部の感性を受け入れる余白がなかったからです。市場との共鳴が起きにくく、収益性は伸び悩みます。「左下:単なる未熟・ノイズ」は価値提供の土俵にすら乗っておらず、淘汰の対象です。

本記事が主眼とするのが「左上:ヘタウマの共創」です。技術的には未完成でも、その不完全さが周囲の「助けたい」「関わりたい」という意欲を強烈に喚起します。うきはのおばあちゃんたちが行政・大手企業・海外の研究者まで巻き込んだように、この隙間が多様なステークホルダーを引き寄せ、予測を超えた付加価値と強固なロイヤリティを生み出すのです。

ヘタウマの価値構造

ヘタウマの価値構造
筆者作成

AIにできないこと|開かれた不完全さ

ここで改めて問いたいのは、AIとヘタウマの本質的な違いです。生成AIはいま、文章・画像・音楽のあらゆる領域で驚異的な「それらしさ」を生み出しています。平均点を最適化する能力において、AIは人間を凌駕しつつあります。しかし、AIが生成するものには構造的に欠けているものがあります。哲学者アンリ・ベルクソンが100年以上前に見抜いた、2種類の「時間」の違いがその核心を照らし出しています。

ベルクソンは、時計で測れる均質な「空間的時間」と、意識が内側から体験する連続的な流れ「純粋持続(デュレー)」を区別しました。AIが処理する時間は膨大なデータの集積であり、あくまで空間的時間の操作にすぎません。対して、上勝のおばあちゃんが「この葉はここを見て選ぶんよ」と語るとき、そこには70年分の山の記憶、季節の変化、料理人との対話が不可分に溶け込んでいます。これがベルクソンの言う純粋持続——過去と現在が渾然一体となって流れる、生きられた時間です。AIにはどれほど学習データを積んでも、この「溶け込んだ時間」を持つことは原理的にできません。

もう一つ、ベルクソンが生命の本質と見なした「エラン・ヴィタール(生の飛躍)」という概念があります。生命は常に予測不可能な創造的衝動を内側から持つ、という考え方です。うきはのおばあちゃんたちが包丁をおぼつかなく握りながらも厨房に立ち続ける、巣鴨のガイドが台本を外れて路地裏を歩く、上勝のおばあちゃんが「忙しゅうて病気になっとれんわ」と笑いながら山を登る──その「なぜかやってしまう」という衝動は、エラン・ヴィタールそのものです。最適化を本質とするAIには、この創造的衝動が原理的にありません。AIは与えられた目的に向かって収束しますが、ヘタウマは目的を超えて溢れ出します。

そしてAIは「共創」を欲しません。どれほど高度になっても、AIは周囲に「助けてほしい」というシグナルを発しません。純粋持続もエラン・ヴィタールも持たないAIは、完璧に「閉じた」存在です。一方、ヘタウマの存在はその不完全さゆえに常に「開いて」おり、周囲の人間を自然と関係者へと変容させます。うきはの宝に行政や大企業が集まったのも、葉っぱビジネスに若いインターン生や世界中の視察者が引き寄せられたのも、この「開かれた不完全さ」が「ここに関わりたい」という人間的な動機を連鎖させたからです。AIが高度化し完璧に近づくほど、この磁力はむしろ希少価値を増していくでしょう。

まとめ| 3つの力

効率と正解が飽和した現代において、「ヘタウマ」は単なる未熟さの言い訳ではありません。それは不完全さを「他者が関わりたくなる余白」へと意図的に転換する、戦略的な設計思想です。うきはのおばあちゃん、巣鴨の漫談ツアー、上勝の葉っぱビジネスが生み出した共創には、3つの力が働いていました。

  1. 自己開示による心理的安全性
    弱さを隠さない存在が「失敗しても受け入れられる」という場の空気をつくり、周囲の「助けたい」を引き出します。
  2. 未完という名の招待状
    完成されたものに他者が手を加える余地はなく、不格好だからこそ「自分が関わらなければ」という当事者意識が生まれます。
  3. 計算不可能な熱量
    スキルより伝えたい意志が先行する愛情の深さが、合理性だけでは動かない人の心を揺さぶります。葉っぱビジネスのおばあちゃんたちが「忙しゅうて病気になっとれんわ」と笑った背景には、まさにこの熱量があったのです。

AIが全ての「ヘタ」を最適化で塗り替えようとする時代だからこそ、純粋持続に根ざし、エラン・ヴィタールによって溢れ出す「生身の隙」は、ますます希少価値を持ちます。閉じた完璧さより、開かれた不完全さで人を巻き込む。ベルクソンが生命の本質と呼んだその創造的衝動こそが、これからのビジネスや地域運営が取り戻すべき、最も人間らしい強さではないでしょうか。