なぜ私たちは自由の重みに耐えられないのか-ルネサンス時代と現代の共通点

自分と向き合うのが怖い現代人

「自由なのに不安」でなく「自由だから不安」

人は自由を奪われるとストレスを感じ反発します。しかしいざ自由な環境を手に入れると、そわそわして落ち着かなくなり、不安を感じてしまうものです。

  • 「人間は自由の刑に処されている」(サルトル)
  • 「不安は自由の眩暈である」(キルケゴール)

過去の偉人達もこう言っているように、私たちは自由になると不安になってしまうようです。

ではなぜ私たちは「自由なのに不安」になるのか。それは自由になると否が応でも「自分と向き合うことになる」からです。「自分は何者なのか」「自分はいったい何がしたいのか」「自分には何ができるのか」──こうした思いと対峙しなくてはいけません。

何か自信をもってやりたいことがある人は、思いっきり自由を楽しむことができるでしょう。思ったこと・感じたことを自由に発信するYouTuberやブロガーのような活動は自由あってこそです。一方、自分に自信が持てず自由に行動できない人も数多くいます。社会の自由度が増すと今まで意識することがなかった「個性」を求められ、不安と生きづらさを感じるようになります。

自由は「ダメな自分」を浮かび上がらせ、一層みじめな気持ちにさせてしまう。「自由なのに不安」ではなく「自由だから不安」なのです。

自由の条件「要求」「能力」「責任感」

ではなぜ「自由だから不安」になるのでしょう。哲学者で評論家の福田恆存は自由についてこのように語っています。

自由というものは、なにかをなしたいという要求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この3つのものに支えられていなければなりません。
福田恆存「幸福について」より

福田は3つのもの「自己の内部の激しい要求」「豊かな能力」「強い責任感」をもたない小人たちは、自由を与えられても、なにをしていいかわからなくなる──このように綴っています。

私たちのほとんどは福田の言う「小人」ではないでしょうか。私の場合、激しい要求はあっても、豊かな能力と強い責任感が伴わないことだらけです。

多忙さで不安から目を逸らす

「自由だから不安」な私たちは、自分を忙しさで取り巻くことで不安の正体から目を逸らそうとします。話題のドラマを倍速視聴で流しながら、SNSの投稿に反応し、自動調理家電のスイッチを入れる。自分に向き合うことを避け、自分以外のことになると平気で疑いを向けたり正義感を振りかざす。正義中毒という言葉があるように、最近は中高年男性によるSNSの誹謗中傷も増えています。こうして私たち現代人は細かなタスクを同時に隙間なく入れ、単純な感覚刺激によって不安から目を逸らそうとしているのです。

君たちはみんな、激務が好きだ。速いことや、新しいことや、未知のことが好きだ。──君たちは自分に耐えるのが下手くそだ。なんとかして君たちは自分を忘れて、自分自身から逃れようとしている

『ツァラトゥストラ』フリードリヒ・ニーチェ

かのニーチェもこのように言っています。生きることを「激務」で取り囲もうとするのは、自由による不安から逃れようとしていることの証左ではないか、というわけです。

ルネサンス時代の自由からの逃避

自由な社会に生きづらさを感じるのは今に始まったことではありません。自由から逃れようとする人々の姿は歴史をさかのぼれば枚挙に暇がありません。自由を求めながら、いざ自由を手に入れるとその重みに耐えられなくなる。こうした心理は中世後期のルネサンスから宗教改革にかけての民衆にみることができます。

自由から逃走しようとするヨーロッパ庶民の姿は、エーリッヒ・フロムの著書「自由からの逃走」に詳述されています。中世ヨーロッパの特徴は封建制度です。5世紀から13世紀のヨーロッパ社会では、階級間の移動はおろか、別の町や村への移動さえほぼ不可能。個人が自由に活動する余地はまったくありませんしでした。その一方、生まれた時から地位が固定されていたことで強固な共同体(コミュニティ)が形成され、その強いつながりによって安心感と帰属感が与えられていました。

中世後期(14世紀~)になると、不自由ながらも庶民を繋いでいた共同体が徐々に崩れていきます。イタリアでは自由貿易で大金を手に入れる人が出てきたことで、生まれや家柄に縛られることなく自由に生きていける、という感覚が生まれます。これが西ヨーロッパ諸国に広く波及し300年続くことになったルネサンスへとつながります。しかしルネサンスは富と力に満ちた一部の上流階級の文化でした。封建社会の中で何百年も暮らしてきた下層・中産階級の庶民はルネサンスがもたらす急激な社会変化についていけず、社会や共同体から切り離され、孤独と不安に苛まれることになります。

自由の海に放り出された庶民に孤独と不安と対峙する道を拓いたのが、宗教改革の中心人物となるルターとカルヴァンです。彼らは庶民に対し、自己の無力さを自覚し、神への絶対服従を誓って禁欲的に仕事に打ち込むことで不安と孤独は克服できると教えます。自由の重みに耐えられなくなった人々にとって、ルターとカルヴァンの教えは「自由な社会から逃げてもよい」という動機付けとなり、庶民に安心感を与えることにつながりました。

自由からの逃走を止めるには

「すがる」「多忙にする」以外の方法

貿易で大金を得た一部の上流階級が自由を謳歌する一方、神に絶対服従することで孤独と不安を解消しようとするルネサンス時代の庶民。YouTuberなど一部の人がネット社会で成功する一方、競争社会の中で個性を求められ、多忙さに身をゆだねて不安から逃れようとする現代人。ルネサンス時代も現代も自由がもたらす光と影という点は共通しています。

何かにすがったり(ルネサンス時代の庶民)、多忙さに身をゆだねる(現代人)ことが有効策でないことは明らかです。いずれも「惨めな自分と向き合いたくない」という心理から目をそらす行為にしかならないからです。身も蓋もない結論ですが、自由な社会の生きづらさを回避するには「自分としっかり向き合うこと」しか方法はありません。

「趣味」に没頭する

自分と向き合うしかないと言われても「それができないから困ってるんじゃないか」と反発されるのがオチです。自分と向き合う勇気を持つために私が提案したいのは「趣味に没頭すること」です。

趣味のよさは「目的を忘れること」にあります。仕事の場合は「期日までに資料を作成する」のような目的がありますが、趣味の場合は没頭すればするほど目的を忘れて行為自体にのめり込んでいきます。私の趣味はギターですが、はじめは「この曲を弾けるようになりたい」という目的がありますが、練習に没頭するうちに「弾けるようになりたい」という目的を忘れ、弾くことそれ自体が楽しくなる瞬間が訪れます。読書やスポーツも同じでしょう。

SNSではよく「〇〇をしてみた」のような投稿をみかけますが、それは趣味とは程遠いものです。本当に趣味に没頭しているときに見えるのは「自分の中の自分」だけです。個性と問われて考え込むのではなく、好きな趣味に没頭することでみえてくる景色こそが自分の個性です。趣味を糸口に自己対話を続ければ、自由への恐怖心も消えていくのではないでしょうか。

趣味に加え、自分と向き合う勇気を持つために必要なのが「強いつながり」です。画面の向こう側の顔の見えない人とは「つながってるけど一人ぼっち」になりがちです。必要なのはルネサンス時代の庶民が求めていたような共同体です。スマホによって希薄化した親友や近所づきあいを取り戻すことです。そうした強いつながりが自分のもう一つの居場所となることで、自由の海を泳ぐ勇気が持てるはずです。この点については別の記事で取り上げます。

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