【記事のポイント】
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エンゲル係数を通じて社会をみる
エンゲル係数と聞いてみなさん何を思い浮かべるでしょうか。おそらく大半の方は「生活の豊かさや苦しさを表す指標」のような捉え方をされていると思います。生活が豊かになるとエンゲル係数は下がり、苦しくなると上がるというイメージです。
エンゲル係数は長期にわたって低下トレンドにあったのですが、2005年に底打ちした後、上昇に転じました。「生活が苦しい家計が増えたから」「食品価格が上がったから」など、エコノミストの間でも様々な見方が飛び交いました。そして現在もエンゲル係数はコロナ禍で再上昇しています。
エンゲル係数の長期推移
実はエンゲル係数の低下と上昇の理由は一つではありません。さまざまな要因が重なり合うことで上がったり下がったりしています。
解釈を必要とするやっかいな指標ですが、だからこそ様々な理由を考える過程で見えてくる景色があることも事実です。経済社会を見る目を養う上でもエンゲル係数の正しい見方について理解を深めることはとても大事なことだと思います。
エンゲル係数とは
エンゲル係数は家計の総支出に占める食費の割合で以下の式で表されます。
- エンゲル係数 = 食費 ÷ 総消費支出 × 100
エンゲル係数自体はただの式ですが、生活水準を表す指標とみなすようになったのは「エンゲルの法則」という理論が背景にあるからです。
エンゲルの法則は、家計の所得水準が高いほど消費支出に占める食費の割合は低下し、逆に所得水準が低いほど食費の割合は上昇するというものです。ドイツの社会統計学者、エルンスト・エンゲルが1857年にこのことを論文で発表しました。
下のグラフにあるように世帯年収別にエンゲル係数を比較すると、確かに年収が低いほどエンゲル係数が高い傾向にあることがわかります。生命を維持するために必要なのが食事です。所得が低くても食事を取らないわけにはいきませんので一定の食費はかかります。エンゲル係数は所得が低いほど高くなるのは直感的にも合っています。
世帯年収別にみたエンゲル係数(2019年)
低下から上昇に転じたエンゲル係数
長期間低下してきたエンゲル係数
先のグラフでみたように日本のエンゲル係数は過去、長期にわたって低下傾向にありました。「もはや戦後ではない」と言われた50年代後半からエンゲル係数は低下をはじめ、高度経済成長、バブル期までほぼ一貫して低下してきました。
戦後から高度経済成長期・バブル期にかけてのエンゲル係数の低下は、経済成長に伴う所得・生活水準の向上によるものと言っていいでしょう。第一次石油危機(オイル・ショック)の73年に上昇がみられますが、経済成長の勢いが上回ったことでエンゲル係数は低下を続けてきたのです。
この期間のエンゲル係数の低下はエンゲルの法則に沿ったものです。つまりエンゲル係数の低下は「生活水準が向上した証」と素直に読むことができた時期です。
ここで一つ留意すべきはバブル崩壊後の景気悪化時(93年~2004年頃)でエンゲル係数の低下がみられた点です。生活水準が悪化する中での低下ですのでエンゲルの法則に反した動きです。あくまで仮説にすぎませんが、この時期はIT革命と重なっています。携帯やパソコンへの支出が膨らんだことで食費が削らされた可能性は十分あるのではないでしょうか。
上昇に転じたエンゲル係数
長期にわたるエンゲル係数の低下トレンドは2005年で底打ちし反転上昇し始めます。60年代には40%近い水準だったエンゲル係数は2005年に22.9%まで低下し、今は30% 近くまで反転上昇しています。
このエンゲル係数の反転上昇をめぐって様々な議論が行われました。政治の世界では野党が「エンゲル係数上昇≒生活水準の悪化」であるとし、アベノミクスで所得格差が進んでいると主張しました。これに対し安倍元首相は、「生鮮食品の価格上昇」「高齢世帯や共働き世帯の増加」「食生活や生活スタイルの変化」などがエンゲル係数の上昇要因であると反論しました。
では、正しいのはどれでしょう。
答えはどれも間違っていません。エンゲル係数の上昇はいくつかの要因が重なって起きています。生鮮品価格の上昇や所得環境が悪化したせいでエンゲル係数が上昇した家計もあるでしょう。健康面に配慮し、素材を重視した食生活を心がけたことでエンゲル係数が上昇した家計もあるでしょう。
エンゲル係数を反転上昇させた3つの要因
エンゲル係数を上昇させた要因について一つずつ確認していきましょう。
(要因1)高齢世帯の増加
高齢世帯の増加はエンゲル係数の上昇要因になります。高齢世帯は養育費などがかかりません。都市など公共交通が発達している地域では自動車免許を返納する高齢者も多いのでマイカーなどへの支出もなくなります。
高齢世帯の収入は年金がメインになるため、現役時代より収入が減少する世帯が多くなります。もちろん豊富なストック(金融資産など)を取り崩してフローに当てれば現役時代以上の収入が得られる高齢世帯も多いでしょう。
しかし以前の記事で指摘したように、高齢世帯はストックを取り崩すことに抵抗があったり、分配型投信などフローを定期的に得る金融資産が少ないため、ストックはリッチでもフローはプアになりがちです。
現役時代と比べて所得が少なくなる中で支出面で重要な位置を占めるのが「食事」です。高齢世帯にとって食事は胃袋を満たすためだけではなく、生活に彩りを与えてくれるものです。
生活に占める仕事の割合が低下する高齢世帯にとって食事は生活の柱です。子供や孫と会うときも食事はとても重要な要素になるでしょう。結果として高齢世帯の増加はエンゲル係数を上昇させます。
ただ高齢世帯の増加自体は今に始まった現象ではありませんので、ここ数年のエンゲル係数を反転上昇させた主因とは言い難いでしょう。
(要因2)「食」の再評価
ここ数年、断捨離やミニマリストという言葉を聞くようになったように、不要なモノを減らして本当に自分に必要なものを選択しようとする消費者が増えています。アパレル業界では毎年のようにバーゲンセールに並んで洋服を買う行動をやめ、ワークマンのような機能と利便性に特化した洋服を身に付ける傾向が強まっています。
不要なものを減らす流れの中で、重要性が高まっているのが「食」です。食は「生きる糧」だけではなく「生活に彩りを与えてくれるもの」として見直されています。
先のように高齢世帯は食事を楽しみの一つとして重視するようになっていますが、若者も同じです。ミレニアル世代やZ世代と言われる最近の若者は自分にとって必要のないモノは買わず、共感する仲間と一緒に食事をするほうを選択しています。コロナ禍でもZOOM飲み会と称して仲間と自分が作った料理を見せ合いながら雑談を楽しんでいるようです。
若者から高齢者まで「食」を軸に生活を楽しく豊かにしようという機運が高まっており、これがエンゲル係数を高める要因になっています。
(要因3)食料価格の上昇
先の2つの要因「高齢世帯の増加」と「食の再評価」は構造変化です。構造変化はじわじわ進行するものです。したがってエンゲル係数の上昇要因にはなっているはずですが、ここ数年の反転・上昇を世帯構造と価値観の変化で説明することは困難です。
エンゲル係数は2005年を底に2014年頃から急上昇しています。直接的な原因として考えられるのが「食料価格の上昇」です。
下のグラフにあるように、2014年頃から食料価格は他の品目を上回る形で上昇しているのがわかります。これは2012年末から急速に進んだ円安の影響で原材料価格が大きく上昇したせいです。日常の食事内容はそう簡単には変えられませんので、食品価格が上がれば家計の食費は上がりやすくなります。
食料品と食料品以外の物価指標の比較
コロナ禍で再上昇した理由
ではコロナ禍でエンゲル係数の上昇傾向が高まっているのはどう説明できるのでしょう。食品価格は安定ないし低下しています。
以前の記事で書いたように、コロナ禍では消費性向(消費支出/可処分所得)が歴史的低水準に落ち込んでいます。つまり消費全体が落ち込んでいるのです。
消費全体が落ち込んでも食料品などの基礎的支出は簡単に削減できないのでエンゲル係数は上昇することになります。コロナ禍のエンゲル係数の上昇は食料品以外の支出が落ち込みすぎたせいで起きているのです。
生活水準との関係はどうでしょう。エンゲル係数を所得階層別にみると低所得層から高所得層まですべて上昇しています。低所得層は生活水準を落としてまで節約している可能性がある一方、高所得層は消費に回さなくなった余裕資金を金融市場に振り向けています。
つまりコロナ禍のエンゲル係数の上昇は、低所得層にとっては「生活水準の悪化」、高所得層にとっては「生活の余裕度」を意味しているのです。生活水準の低下とそうでないものが入り混じっている点は注意が必要です。
所得階層別にみたコロナ禍のエンゲル係数の変化
まとめ
最後に過去のエンゲル係数の要因について整理しておきます。
- 長期にわたる低下期(戦後~バブル期)
- 所得上昇を受けた生活水準の向上 - 反転・上昇期(05年~2019年)
- 高齢世帯の増加
- 食の再評価
- 食品価格の上昇(2014年~) - コロナ禍の再上昇(2020年)
- 食料品以外の支出が急減
- 生活水準への影響は所得層によって異なる
こうしてみるとエンゲル係数は様々な要因で動くことがわかります。長期にわたって生活水準を表す指標だったのが、ここ数年は世帯構造、価値観、物価、経済ショックの影響を受けるようになりました。
エンゲル係数はその時々の社会や家計の姿を映し出す鏡のようなものです。実に奥深い指標ですので心して接しましょう。