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野暮化する現代社会に必要な江戸の「いき(粋)」-九鬼周造に学ぶ「いき」の構造

野暮化する現代社会

白黒をつけたがる

「善いか悪いか」「敵か見方か」「好きか嫌いか」「イエスかノーか」など、不確実な状態を認めようとせず白黒をつけたがる風潮が強まっているように感じます。

  • 好感度ナンバーワンの芸能人が一瞬にして表舞台から消える。
  • ある政策を巡って賛成派と反対派に真っ二つに別れる。
  • 会議では必ず結論を出すことを求められる。

──このような場面を見るたびに脳裡に浮かぶ言葉があります。「野暮」です。融通が利かない、あか抜けない、洗練されていない人を「野暮ったい」と言ったりしますが、野暮ったい人の頭のなかは常に「答え探し」をしている状態です。

野暮化は感性を奪う

野暮の最大の問題は「感性」が失われることです。野暮な人は答えのない事態に耐えられないため、意思決定を外部のシステムに依存するようになります。コスパ・タイパ思考は野暮な状態を端的に示しています。

私はよく夕飯の献立をレシピサイトで決めたりします。忙しいとき限定ならよいのですが、使う頻度が増してくると、「自分が何を食べたいのか」「何が足りないのか」という身体への問いかけ──感性がなくなっていることに気付きます。

スポーツ界でも野暮化が進行しています。メジャーリーグではデータに従わない選手は評価が下がるとさえ言われています。イチローは、今のデータ野球は選手の感性を奪っていると危機感をあらわにしています。

 

野暮では不確実性に対処できない

変化が激しく先行きが見えない社会のことをVUCA(ブーカ:Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性))の時代と呼んだりします。現代のように不確実性が高い時代では人は不安になり、思わず目の前の答えらしきものに飛びつきたくなる気持ちはよくわかります。

しかし野暮な行動はVUCAの時代では逆効果になります。環境は連続的に変化し続けているため、ある時点の答えは次の瞬間には時代遅れになっている可能性が高いからです。

VUCAの時代に必要なのは、感性を豊かにしながら「答えを急がない」「可能性を可能性として留めておく」ことです。

江戸の「いき(粋)」に学ぶ

塀の上を歩く

現代社会では野暮な行動はリスクが高い。そこで注目されるのが、野暮の反対語「いき(粋)」です。「いき」は江戸時代に庶民の生活から生まれた美意識です。

  • 分別をわきまえつつ遊び心を忘れない
  • スーツなのにカジュアルに着崩している
  • 試合中止でがっかりしていた少年に選手がサイン入りボールを送る

このような振る舞いや行動を「いき」と呼びます。答えを出さず、型にハマらず「塀の上を歩く」ような生き方です。相手はこうなんだろうと推し量りながら一回呑み込んで間合いや距離感を測る。答えず出さず可能性のなかで揺れ動く。塀の中にも外にも落ちないよう踏ん張る。簡単にできることではありませんが、江戸の人はこうした心意気を「いき」と呼んだわけです。

九鬼周造「いき」の3要素

ぼんやりとした「いき」という概念を見事に体系化したのが明治生まれの哲学者、九鬼周造という人です。九鬼によると「いき」は3つの要素から成ります。

【媚態】可能性を可能性としておく

「いき」の一つめの要素は「媚態(びたい)」です。媚態とは「媚びる」「なまめかしさ」「つやっぽさ」を表す言葉です。例えば初めて会う人に対して私たちは一定の礼儀を持って接します。相手がどんな人か知らなくとも、失礼のないよう「媚びる」わけです。

九鬼は媚態でもっとも重要な点は「可能性を可能性としておくこと」と言います。魅力的な異性に面と向かって「付き合いたい」と言うのは媚態を消滅させます。可能性が可能性でなくなったら野暮になるからです。目的や答えを口に出すのではなく、相手との不確実な状態を絶妙な距離感で楽しむこと。これが媚態の真髄です。

異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する──。可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって「歓楽」の要諦である。
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)より

【意気地】武士道の理想

媚態が行き過ぎると人は浮ついた状態となり、その場の空気に引きずられるようになります。まさに野暮な状態です。そこで九鬼が「いき」の2つめの要素として挙げたのが「意気地」です。

意気地は江戸時代の道徳観・宗教観を反映した言葉で、そこには武士道の理想が息づいています。媚態が行き過ぎたとき、「自分はこのような考えを持っている」「そこだけは譲れない」という態度を示すことで、行き過ぎた媚態による空気を切断できます。

「いき」のうちには溌剌として武士道の理想が生きている。(中略)「五丁町の辱なり、吉原の名折れなり」という動機の下に、吉原の遊女は「野暮な大尽などは幾度もはねつけ」たのである。
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)より

【諦め】執着を手放す

媚態の行き過ぎを武士道の意気地で切断しても「いき」は成立しません。意気地もまた行き過ぎると「野暮」になるからです。頑な態度は「善いか悪いか」「敵か見方か」という目的思考に陥ってしまいます。意気地の先にもう一つの結節点が必要となる。それが3つめの要素「諦め」です。意気地の暴走を止めるには「諦め」が必要だからです。

九鬼は諦めについて「運命に基づいて執着を手放した無関心」と表現しています。異性に猛烈に漢気をアピールしても相手の気持ちが向いてこない。運命を受け入れて異性への執着を手放し、再び媚態に帰っていく。空無・涅槃を原理とする仏教の世界観にどこか通じるものがあります。

運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜けがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒(しょうしゃ)たる心持でなくてはならぬ。
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)より

「媚態」「意気地」「諦め」の3すくみ

「諦め」も行き過ぎると「野暮」になります。世の中を何でも悲観的に捉えるようになり、シニカルなニヒリズムに陥ってしまうからです。

つまり「いき」は、「媚態」「意気地」「諦め」の3すくみではじめて成立するということです。どれかが欠けても「いき」にならない。ちょっと油断するとすぐ「野暮」になってしまう。

江戸時代の「いき」は庶民生活から自然発生的に生まれたこと。これが「媚態」「意気地」「諦め」の3すくみにつながったとも言えるのではないでしょうか。

現代社会が「いき」を取り戻すには

私は現代社会が江戸文化の「いき」を取り戻すことで、現代人の生きづらさが軽減されるのではないかと期待しています。では「いき」を取り戻すにはどうすればいいのか。九鬼が示す「いき」の3要素が手掛かりになります。

まずは「媚態」。他者との関係性について可能性を維持したまま程よい距離感で接すること。これが媚態の本領でした。今のSNS社会は「不特定多数の顔の見えない関係性」です。江戸時代のような程よい人間関係に必要な感性が養われる機会が少ない。たった一つの投稿で相手を悪者と決めつけて皆で叩きまくる(野暮化)。媚態を取り戻すには、野暮化するSNSから意識的に距離を取る必要があります。家族、友人、近所の人々と顔の見える関係性を修復すること。目の前の人と真摯に向き合うことで、他者という存在がいかに多様で理解できないことを学ぶ。SNSの先には顔がある。こうした感性が養われればSNSでも媚態が実現できるはずです。

意気地」はどうでしょう。現代社会は一部の意気地の強い人と多数の弱い人で二分化しています。インフルエンサーや思考に偏りがある一部の政治家は意気地が行き過ぎて「良いか悪いか」「敵か味方か」を連呼する。その他大勢の意気地の弱い人々は意気地がなさ過ぎてSNSの投稿に振り回される。二分化する意気地を健全な形に戻すには倫理観や宗教観が必要です。武士道の精神とまではいかなくとも「自分にとって大切なものは何か」を考える時間を増やすことです。

3つの要素でもっとも重要なのが「諦め」です。諦めとは宿命を受け入れることです。福田恒存は「人は宿命を受け入れて自由になる」と言っています。しかし江戸時代の士農工商のような身分制度がない現代において宿命を受け入れるのは難しくなっています。SNSで同年代のリア充な人の姿を見せつけられるとなおさらです。挙句の果ては暴力的になるかうつ病になるかです。現代人が宿命と向き合うには究極の宿命である「自然」に触れることです。リア充な人でも制御できない崇高な世界が自然だからです。人と自然をつないできた「神社」に足を運ぶなど、身近なところから自然を意識することが必要でしょう。

江戸の庶民から生まれた「いき」は、現代の庶民をも元気づけるはずです。私たちが「媚態」「意気地」「諦め」を日常的に意識することで景色はだいぶ変わってくるのではないでしょうか。