お金に色は「ある」- お金と価値の関係を見直そう

「お金に色はない」というが

お金に色はない』という言葉を一度は耳にしたことがあると思います。汗水たらして稼いだ1万円も道端で拾った1万円も財布や口座に入ってしまえば見分けがつかないという意味です。どのように手に入れたお金も「お金はお金」。「どんな食べ物も胃袋に入ってしまえば一緒」と言うのと似ています。一瞬納得しそうになるこの言葉。でもどこか腹落ちしない自分はいないでしょうか。

先日、苦労して書いた原稿料が口座に振り込まれ、達成感とともに喜びの感情が湧いてくるのを感じました。同じ日に、たまたま値上がりした投信の売却代金も口座に入っていました。投信の売却益のほうが原稿料より多いのに、明らかに原稿料のほうがうれしく感じるのです。

「お金に色はない」のであれば、金額が大きい投信の売却益のほうがうれしく感じるはずなのにそうはなっていない。私の頭の中では、原稿料と売却代金は明らかに色分けされているのです。

まあそんなに深く考えなくても、という意見もあるでしょう。しかしお金の色について考えることは、働く価値や企業の競争力について考えることと一緒だとしたらどうでしょう。簡単にスルーできる話ではありません。

お金とは何か

3つの役割

お金に色があるかどうかを考える上で、お金の役割や機能について押さえておく必要があります。お金には以下の3つの役割があります。

① 価値の尺度
② 価値の交換
③ 価値の保存

お金とは「価値」という漠然としたものに尺度を与え、別のものと交換したり、保存できるようにする仕組みのことです。

お金が価値から切り離されていく

現在世界最古のお金は紀元前1600年~1046年に古代中国で使用された貝殻とされています。長い歴史を持つお金が今日のように高いプレゼンスを持つようになったのは資本主義が登場してからです。

お金はもともと「価値」を運ぶツールだったのが、資本主義が発達するにつれ、価値をどう提供するかより「お金からお金を生み出す」方法に注目が集まるようになります。価値を媒介するツールにすぎなかったお金が価値から分離して一人歩きする。「価値→お金」から「お金→お金」となっていったわけです。

「お金→お金」現象が極まったのがリーマンショックでした。証券化などのスキームが生み出されると本来の価値がますます見えなくなります。証券化の証券化まで起こると、もはやどのような発行体が含まれているかなどわからなくなってしまう。価値が完全に蚊帳の外に置かれてしまったわけです。

お金が価値から切り離され、お金それ自体を増やすことが目的化した世界では、お金に色はありません。意識されるのはリスクとリターンのみです

お金と価値の関係を見直す

価値とはなにか

リーマンショック以降、世界では「お金を増やすこと」自体が目的化してしまったことへの反省として、お金と価値の関係を見直す機運が生まれました。モノを持たないで生きるミニマリストという人々が出始めたのもその一つです。

こうした機運は、価値を測り・交換し・保存するという本来のお金の役割に回帰しようという動きと理解できます。もう一度「価値とはなにか」に立ち返り、その価値をサポートするものとしてお金を位置づける。増やすことを目的とした無色透明のお金に色を与える動きです。

消費活動では応援消費のような言葉が生まれ、金融の世界でもクラウドファンディングやESG投資など、リスクとリターンがすべてだったお金に「意味」を与える動きが強まっています。金融市場の拡大はとどまる気配はありませんが、市場参加者もメディアもリーマンショック前と違って投資先に関心を持っているように思えます。

「意味的価値」のお金は色がつく

もう少し価値について考えてみましょう。お金と価値がしっかり結び付けば、お金に色が出てくるのでしょうか。必ずしもそうとは限りません。価値にも種類があるからです。お金に色が出る価値と出ない価値があるということです。

本ブログでも何度か取り上げていますが、価値には「機能的価値」と「意味的価値」があります。機能的価値の基準は「役に立つかどうか」です。ファストフード店や無人店舗など便利で時間効率のよい商品・サービスが含まれます。金融の世界ではインデックス型の投信がこれに含まれ、手数料を徹底的に引き下げて機能的価値を競い合っています。

機能的価値はどこがやってもそれほど違いが出ないためコモディティ化しやすく、コストを下げるために規模拡大が求められますので、プレイヤーは勝つか負けるかが運命づけられます。

これに対し、意味的価値の基準は商品・サービスに込められた「意味やストーリー」です。同じメロンでもどの地域のその生産者がどのような苦労をして育てたかどうかで価値が決まる世界です。応援消費は意味的価値の典型です。金融の世界ではリスク・リターンはあくまで結果であり、重要なのは投資先の商品・サービスの中身や経営者がどのような考え方を持っているかです。例えば、ひふみ投信という投信会社は意味的価値をベースに金融の世界を変えようとしています。

価値とお金の色の関係は下記のように整理できます。単純に価値とお金が結びつくだでお金に色がつくわけではなく、意味的価値のような価値を交換・保存するときに色がつくのです。

機能的価値 ⇒ 色の「ない」お金
意味的価値 ⇒ 色の「ある」お金

多様で豊かな社会経済にはお金に色が「ある」

集中から分散の時代

このように価値とお金の関係を見直すと、お金の色は裏付けとなる価値の種類(機能的価値か意味的価値)によって決まることがわかります。機能的価値に支払うお金には色がつきにくく、意味的価値に支払うお金には色がつきやすいということです

ではこれからの時代、お金には色がないほうがいいのでしょうか、それともあったほうがいいのでしょうか。これは機能的価値が望ましいか、意味的価値が望ましいかということです。

私は、お金に色がつかない機能的価値の優位性は今後相対的に下がっていくのではないかと感じます。その理由は経済システムが「集中から分散の時代」に入っているからです。

「集中から分散の時代」とはどういうことか。近代社会は「中央集権化」をモデルとしたものです。情報が偏って存在しリアルタイムで情報が共有化できなかった時代は、中央の管理者に情報と権力を集中させて問題解決を図ったほうが社会にとって効率的でした。企業活動も大量生産・大量消費を前提に規模拡大を目指すほうが収益を上げられたわけです。それが東京一極集中という現象をもたらしたのは言うまでもありません。

しかし周知のように今やインターネットによって情報は民主化され、かつてのような情報の非対称性は消えつつあります。誰もがネットワークでつながり、自分に刺さる商品・サービスを求めています。

そうなると東京一極集中のような物理的制約も急速に解消されていくでしょう。通勤地獄を味わいながら東京という物理空間に縛られる理由はありません。地方にいながら東京の企業の仕事をテレワークでこなす。どこに住もうがどこで働こうが最終的に顧客に価値を提供できればよいわけです

色のない資本主義から色のある価値主義へ

IT企業はよくマネタイズという言葉を用いますが、そこには「価値さえあればお金は後からついてくる」という価値ファーストの発想がベースにあります。GoogleもFacebookも価値ファーストの企業です。

こうしてお金に色がない「資本主義」からお金に色がついた「価値主義」に経済社会が大きく変化しようとしています。そうした中でいつまでも色のないお金で商売をしようとすると商品はコモディティ化し、1社だけが勝利を収めるレッドオーシャン市場に身投げすることになります。

投信の安売り競争は色のないお金を集めるための戦いとなっています。手数料引き下げ競争の持久戦に勝利するには規模を拡大するしかないのです。

迷走する大塚家具は、家具の持つ意味的価値を引き出すより、便利さを求める機能的価値の市場に移ることで色のないお金を引き出そうとしています。そこに待っているのはニトリやイケアといったレッドオーシャンを勝ち抜いた強者との戦いです。結果は目に見えています。

色のないお金で形成される世の中は殺伐としたものになります。分散化の時代に入っているのに過去の中央集権モデルにすがっているのは悲劇です。

色付きのお金を引き出すために意味的価値を創造する

このマインドセットで世の中の景色はずいぶん変わってくると思うのですがどうでしょうか。

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