スマホに日々流れてくる膨大なニュースやSNS投稿──それだけで私たちは「現実」を理解した気になってしまいます。しかし「情報が描く現実」と「現実そのもの」は異なります。「情報が描き出す現実」は私たちから身体感覚を奪います。地に足を付け、「現実そのもの」に近づくにはどうしたらいいのでしょう。
「情報が描く現実」を「現実そのもの」と認識する
情報を現実と勘違いしてしまうケースは私の周りでも増えています。
クマ出没でも現実感がない住民
田舎の実家に帰省していたときのこと。早朝から騒がしくて窓を開けると、目の前の道路をクマが横切ったということで近所の人たちがパニックになっています。今年は特にクマ被害のニュースが多く「ここにも出るかも」という話はしていたはず。しかしいざ出没となると身体が動かない。クマ出没のニュースを意識では理解していても、身体感覚として捉えていなかった証拠です。
感覚が機能していれば、熊被害のニュースを見た瞬間、心が「ざわっと」します。危機対応モードのスイッチが入り、いざ目の前で熊が出没してもパニック状態にはなりません。
米騒動で農家の姿が浮かばない
「令和の米騒動」に対する世間の反応も然り。家計が苦しいとデモがあちこちで行われていました。しかし田んぼの風景や農家の方の姿を思い浮かべた人がどれだけいたでしょう。
「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように、お米はその土地の神様からの贈り物です。日本人にとってお米は文化そのもの。高い安いの損得勘定で割り切れる話ではないはずです。「家計の危機」として感覚が揺さぶられても「米文化の危機」としての感覚は反応しなかったということです。
お天気ニュースで季節を知る
「暑いけど、秋はちゃんときてますよ」──。猛暑日の中で訪れた近所の和菓子店。秋の訪れを告げるお菓子の数々によほど困惑した表情を浮かべていたのか、店主からこう話しかけられました。
帰宅して気づきました。目をつむれば朝晩の風に少し涼やかさが混じるようになり、耳をすませば草むらからコオロギなど秋の虫たちの声が聞こえてくる。私は「今年の夏は長く、秋が短くなる」というニュースをみて、秋の到来はまだ先と思い込んでいたわけです。天気はスマホのニュースで知る。窓を開けて空気や風を感じる機会が減ったことが原因です。
なぜ感覚が失われたのか
このように現代人は「情報が描く現実」を「現実そのもの」と認識するようになっています。感覚を通して現実に触れる機会が減ったため、クマが出ることが頭では分かっていてもいざ出没するとパニックになる。意識が支配する頭でっかちな状態を養老孟司先生は脳化社会と呼んでいます。ではなぜ、これほどまでに感覚が失われてしまったのでしょう。
個人主義・自由主義で共同体感覚を失う
人類はもともと自然や他者との関係性から感性や感覚を身に付けてきました。空気のにおいや空の状態を観察してその日の天候を知る。取った獲物を仲間に分け与える。このようにして共同体感覚を身に付けてきました。
それが明治近代化以降、個人が砂粒化・記号化・バラバラになります。農村から都市への大規模な移動、核家族化の進行によって「故郷に錦を飾る」という共同体感覚も失われていきました。「あなたらしさ」が過剰に求められ、自分探しと言う名の妄想の旅に飛び出し、挙句の果てにAIに人生相談する若者。国家や地域共同体といった袋の中で保護されてきた日本人が丸裸のまま世界に放り出されて競争原理にさらされています。もはや感覚の出る幕はなく、意識がフル稼働する状態が続いているわけです。
「人間は自分の為だけに生きて、自分の為だけに死んでいくほど強くはない」──。三島由紀夫が言うように、共同体感覚を失い意識が肥大化した日本は不安と不満が充満する社会になっています。
スマホ依存
感覚喪失社会を決定的なものにしたのがスマホです。人が何を「現実」と感じているかはその人が何に多くの「時間」を使っているかによります。農家の人なら自然、ビジネスマンなら職場、子どもなら学校が現実と感じる時間かもしれません。そうした中、老若男女問わず増えているのが「スマホ時間」です。スマホを1日6時間以上使用するヘビーユーザーの割合は、2016年の1割から2021年には4割近くに急増しています。地域別にみても傾向は変わりません(下図)。隙間時間というレベルではなく他の活動時間を削ってスマホに充てているわけです。
食事中も家族と会話せずスマホばかりみている人。目の前の人とスマホでやり取りする人。使っているのは意識で感覚や感性は使っていません。
スマホ依存は自分の身体をも置き去りにします。外で飲食店を探すとき、孤独のグルメの主人公、井之頭五郎は「オレの胃袋は今何を求めてるのか──」と感性マックスで自分の身体と対話します。しかし現代人の多くはスマホのアプリで評価の良さそうな店を選ぼうとするでしょう。自分の胃袋の声など完全に無視です──。
【地域別スマホ利用時間】1日6時間以上ユーザーの割合
子どもの「自然離れ」
スマホ依存で失われていく時間の筆頭、それが「自然」です。早くて便利で分かりやすいスマホのコスパ・タイパサービスと違い、自然は予測不可能な不確実性の塊です。息をのむ美しさをみせることもあれば、3.11のように猛威を奮うこともある。その圧倒的な力を前に畏敬や驚嘆の念を禁じ得ない。人は自然に触れることで観念が消え、感性や感覚が研ぎ澄まされるのです。
自然離れは子どもたちにも大きな影響を及ぼしています。外で遊ばなくなっているのです。放課後に外で2時間以上遊ぶ子どもは1割に過ぎません(図表)。「外は危険だから」「習い事があるでしょう」と言われて外で遊ばなくなる。結果、家でスマホゲームをするようになるのです。
神社が減っているのも、外遊びしない子どもを象徴しています。「神社で鬼ごっこ」をする子どもの姿はほとんどなくなりました。
自然は子どもの感性を育てる貴重な空間です。見たことのない虫をみて恐る恐る触ってみたり、思わぬケガをしたり──。圧倒的で崇高な自然に触れることで、自分ではなんともならない世界があることを体で覚えるわけです。自分用にカスタマイズしてくれるスマホの世界に不確実性に触れる場はありません。
外遊びの時間(世代別)
「情報が描く現実(バカの壁)」から物理的に遠ざかる
どんなに膨大な情報でも情報は情報、現実の一部を切り取ったものに過ぎません。「情報が描く現実」と「現実そのもの」は異なる──。こんな当たり前のことでさえ、自然離れで感性が失われた現代人は気付けなくなっています。情報社会が作る「バカの壁」に閉じ込められているのです。虫の音や空気の匂いで季節を感じ取る──和菓子職人のような豊かな感性と感覚を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか。
それには「情報が描く現実(バカの壁)」から物理的に離れるしかありません。脳科学では人間の行動のほとんどは無意識によるものとされています(自由意志がない)。意識しようとしても普段の行動に引っ張られてしまうのです。
このようにまずは物理的に情報社会から離れてみる。そうすることで身体に耳を傾ける機会が増え、感性や感覚を取り戻すことができます。養老孟司先生は以前から都会と田舎の両方を行き来する二拠点生活を提唱しています。失われた感覚は身体を通じて取り戻すしかないということです。