「日本人はリスクが嫌い」の真偽
目の前の石ころが気になる
「日本人はリスクを嫌う」とよく言われます。「世界価値観調査」(2010~2014年)のリスクに関する結果をみると、日本人は約7割が「自分は冒険やリスクを求める」に当てはまらないと回答しており、調査対象(60カ国)の中で最下位という有様です。
私は以前、リスクコンサルタントという仕事をさせて頂いていました。企業を取り巻くリスクを洗い出し、それらを目の前にある小さなリスクと遠い先にある大きなリスクに分け、後者の重大リスクに集中してもらうための仕事です。
するとどうなるか──。優秀な頭脳を持つ大企業の皆さん、そろいもそろって目の前の小さな石ころ(リスク)が気になって必死に排除しようとするのです。そして肝心の遠い先にある重大リスクに関しては、「他社さんはどうしてますか?」という調子です。
目先の小さなリスクを気にするあまり、遠い先の重大リスクが軽視される──これが「日本人はリスクが嫌い」の真相です。リスク管理の観点からは、とても褒められる状態ではありません
「冒険やリスクを好む」に当てはまらないと考えている人
注視すべきリスクと無視してよいリスク
日本人は「生まれつきのリスク嫌い」ではない
日本人のリスク嫌いについて、「日本人は生まれつきの心配性だから仕方ない」という声もありますが、果たして本当にそうでしょうか。たしかに日本人には不安を感じやすい遺伝子(セロトニントランスポーターS型)を持つ人が多いと言われています。
しかし歴史を辿るとリスク嫌いとは反対の姿──リスクに果敢に挑む日本人の姿を目撃します。戦国時代では身分の低い家臣が主君を打ち破って領国を奪う下剋上が頻繁に起こりました。明治時代では秩禄処分で経済的特権を奪われた旧武士が養蚕や製糸業などに挑戦し、散髪屋など新産業を起こしました。NHK朝ドラの「ばけばけ」でも果敢にリスクをとっていく旧武士の奮闘ぶりが描かれています。
心配性ではなく心配事が多い
こうして歴史を振り返ると、日本人は「生まれつきのリスク嫌い」ではないことがわかります。別の言い方をすると、心配性ではなく心配事が多いせいで、目の前の石ころまで気になってしまうようになってしまったのです。
ではなぜ心配事が多くなってしまったのか。それはあらゆることにエビデンスや根拠が求められる社会になったためです。以前テレビである有名人が相手に向かって「それってあなたの感想ですよね」と突っ込みを入れるシーンがありました。エビデンスや根拠がなければリスクを負ってしまう社会では、目の前の小さなリスクでも避けることが合理的な行動になります。
最近は国や自治体もエビデンス至上主義です。経験や勘に頼るのではなく、データや客観的なエビデンスに基づいて政策を企画・立案し、効果を検証・改善していくEBPM(Evidence-Based Policy Making)が推進されています。私もEBPM関連の仕事を受けることが多いのですが、あらゆることにエビデンスが求められることで心や身体が自然と萎縮してしまい、知らぬ間にリスク回避的になっているのがわかります。
エビデンス至上主義の落とし穴
感性が鈍くなる
エビデンス至上主義の落とし穴は感性が鈍くなることです。私たちは身の回りの出来事やニュースに触れるたびに「何が起こっている?」「なぜこうなったのか?」と、すぐさまスマホを取り出してエビデンス探しに躍起になります。意識が常に外側に向いているため、内側の感性や直観を使う場がなくなっているのです。
- 天気予報はみても空を見上げない
- カルテはみても患者の顔をみない医師
- 目の前の同僚とチャットで会話するサラリーマン
──という具合に、現代人はエビデンス探しに意識が向いてしまって感性や感覚の出番がないのです。
「ブルシットジョブ」が増える
エビデンス至上主義の症状がもっとも顕著にみられるのが職場です。エビデンス至上主義に陥ると本来気にする必要のない目の前の石ころさえ気になってしまいます。「万が一、~になったらどうしよう」という考えに囚われる人をマンイチさんと呼ぶそうですが、このような人が職場で増えているようです。
マンイチさんは特に大企業に多くみられます。組織のピラミッド化とタスクの分業化・専門化が進む大企業では文書化・エビデンス化が求められます。エビデンスがなければ落ち着かない状態となり、形式上の「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」が常態化します。
エビデンスのためのエビデンス作りは「ブルシットジョブ」の典型です。エビデンス作りに追われるビジネスパーソンは自分がなぜこんなに忙しいのかわかっていない人がほとんどです。
想定外が想定できない
エビデンス作りというブルシットジョブが増えると、エビデンスにないものに対する想像力が失われます。企業の現場では不確実性なことから目を逸らそうとする社員の態度に表れています。顕著なのが事業計画やリスク管理でストレステストを行うときです。
ストレステストでは、通常時には起こり得ない想定外の事象(ストレスシナリオ)を仮定し、事業や商品がどのような影響を受けるかを検証します。そこで頻繁にみられるのが、「想定外が想定できない」という事態です。いざシナリオが現実になると「想定外でした──」と慌てふためく羽目になるのです。
エビデンス至上主義から抜け出すには
ではエビデンス至上主義の世界から抜け出すにはどうすればいいのか──。目の前の小さな石ころに惑わされることなく重要なリスクに向き合うにはどうすればいいのでしょう。
エビデンスを過大視しない
まずはエビデンスを過大視しないことです。ある現象を説明できそうなエビデンスがあっても、その関係が常に正しいとは限りません。高い経済効果が見込めるプロジェクトがあっても、前提となるエビデンスは常に変化するものです。エビデンスを前提に走った結果、失敗するプロジェクトは枚挙に暇がありません。それを想定外と言い放ってしまうのは愚かとしか言いようがありません。
エビデンスは現実の一部分を切り取ったものに過ぎない。こうした認識を強く持っておく必要があるでしょう。
スマホを置いて外に出よう
エビデンスは現実の一部分を切り取ったものにすぎない──。であれば、現実を知るにはエビデンスの世界から飛び出すしかありません。
10月のある暑い日に和菓子店を訪れると、店頭に秋のお菓子が並んでいます。よほど困惑した表情を浮かべていたのか、店主からこう話しかけられました──「暑いけど、秋はちゃんときてますよ」。帰宅して気づきました。目をつむると朝晩の風に少し涼やかさが混じるようになった。耳をすませば草むらからコオロギなど秋の虫たちの声が聞こえてくる。私は「今年の夏は長く、秋が短くなる」というニュース(エビデンス)をみて、秋の到来はまだ先と思い込んでいたわけです。
最近は田舎でボランティア活動を行う企業も見られるようになりました。共通するのは社員の顔つきが変わったというポジティブな反応です。エビデンスの世界から離れると人々は元気になる。元気になれば目の前の小さな石ころなど気にならなくなり、重要な事柄に集中できるようになります。
スマホを置いて外にでる──。エビデンスの世界から抜け出すには行動しかありません。